清盛は自惚れて先を見ることができなかった。油断して頼朝や義経など源氏の息子たちを生かしてしまった。安全対策には先を見る力が重要なのである。なんちゃって。
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清盛は、発病以来、水さえ喉も通らず、体が火のように熱い。病床の周り4、5間のところへ来た者は、耐え難い熱さを感じるほどだった。
清盛は、ただ、
「あた、あた(熱い熱い)」と言うだけで、まったくただごとではない。
比叡山から千手井の水を汲んできて石造りの浴槽にたたえて、それに清盛の体をつけると冷たい水がはげしく沸き立って、たちまち湯になる。
筧の水を清盛の体にかけてみたが、焼けた石や鉄のように水がはねる。たまたまかかった水は炎となって燃えたので黒煙が邸の中に充満して炎がうずまいてあがった。
清盛の妻二位殿が見た夢は、恐ろしいものだった。
猛火があがる車を門の中に入れると車の前後に馬と牛の顔をした者が立っている。車の前には「無」と一文字だけ書かれた鉄の板が立っている。
二位殿が「この車はどこから来たものか?」と問うと、
「閻魔庁から清盛殿をお迎えにまいった」と答える。
「鉄の板の意味はなんですか?」と尋ねると、
「東大寺を滅ぼした罪で清盛殿を無間地獄の底に落とすことが閻魔庁で決まった。すでに無限の無の字が書かれていて、これから間の字を付け加えるのだ」と言った。
夢から覚めた二位殿は冷や汗でびっしょりになり、この話を人に話すと、みな、身をふるわせた。
清盛の息子や娘や縁者たちが清盛に寝床に集まって嘆き悲しんだが、日増しに具合が悪くなる清盛をどうすることもできない。
その年の閏2月2日、二位殿が清盛の枕元に近づいて
「この世にいいのこすことがあれば、意識があるうちにお話してください」と促した。
日頃は気丈なる清盛も、まことに苦しげで息をあえがせながら、以下のように言った。
「保元、平治の乱以来、朝敵を平らげた功績によって天皇の母方の祖父となり太政大臣の座にものぼりつめてその栄華は子孫にも及ぶ。この世に望むことは何もないが、心残りなのは伊豆の国に流した頼朝の首を見れなかったことだ。
わたしが死んだ後には仏堂や塔などを建てて供養することはない。すぐに討ち手を遣わして頼朝の首を刎ねて、わたしの墓前に供えよ。それが何にも増した供養である」
その年の4日、清盛は悶え苦しみながら死んだ。清盛64歳であった。世は騒然として天も響き地も揺らぐほどであった。天皇が死んだよりも比較にならないほどの喧騒にわいた。
2月7日、遺体を愛宕(おたぎ)で火葬にし、円実法源が遺骨を袋に入れて首にかけ、摂津の国におもむいて経の島におさめた。
講談社「シリーズ古典 吉村昭の平家物語」を参照しています。
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清盛は、発病以来、水さえ喉も通らず、体が火のように熱い。病床の周り4、5間のところへ来た者は、耐え難い熱さを感じるほどだった。
清盛は、ただ、
「あた、あた(熱い熱い)」と言うだけで、まったくただごとではない。
比叡山から千手井の水を汲んできて石造りの浴槽にたたえて、それに清盛の体をつけると冷たい水がはげしく沸き立って、たちまち湯になる。
筧の水を清盛の体にかけてみたが、焼けた石や鉄のように水がはねる。たまたまかかった水は炎となって燃えたので黒煙が邸の中に充満して炎がうずまいてあがった。
清盛の妻二位殿が見た夢は、恐ろしいものだった。
猛火があがる車を門の中に入れると車の前後に馬と牛の顔をした者が立っている。車の前には「無」と一文字だけ書かれた鉄の板が立っている。
二位殿が「この車はどこから来たものか?」と問うと、
「閻魔庁から清盛殿をお迎えにまいった」と答える。
「鉄の板の意味はなんですか?」と尋ねると、
「東大寺を滅ぼした罪で清盛殿を無間地獄の底に落とすことが閻魔庁で決まった。すでに無限の無の字が書かれていて、これから間の字を付け加えるのだ」と言った。
夢から覚めた二位殿は冷や汗でびっしょりになり、この話を人に話すと、みな、身をふるわせた。
清盛の息子や娘や縁者たちが清盛に寝床に集まって嘆き悲しんだが、日増しに具合が悪くなる清盛をどうすることもできない。
その年の閏2月2日、二位殿が清盛の枕元に近づいて
「この世にいいのこすことがあれば、意識があるうちにお話してください」と促した。
日頃は気丈なる清盛も、まことに苦しげで息をあえがせながら、以下のように言った。
「保元、平治の乱以来、朝敵を平らげた功績によって天皇の母方の祖父となり太政大臣の座にものぼりつめてその栄華は子孫にも及ぶ。この世に望むことは何もないが、心残りなのは伊豆の国に流した頼朝の首を見れなかったことだ。
わたしが死んだ後には仏堂や塔などを建てて供養することはない。すぐに討ち手を遣わして頼朝の首を刎ねて、わたしの墓前に供えよ。それが何にも増した供養である」
その年の4日、清盛は悶え苦しみながら死んだ。清盛64歳であった。世は騒然として天も響き地も揺らぐほどであった。天皇が死んだよりも比較にならないほどの喧騒にわいた。
2月7日、遺体を愛宕(おたぎ)で火葬にし、円実法源が遺骨を袋に入れて首にかけ、摂津の国におもむいて経の島におさめた。
講談社「シリーズ古典 吉村昭の平家物語」を参照しています。