風邪をひいてしまって熱でぼーっとしたまま映画「おろしや国酔夢譚」を横になりながら見ました。井上靖原作。しかし、以下の文章は吉村昭著「大黒屋光太夫」を参照しています。井上靖原作は光太夫たちが江戸で自由に暮らした事が判明していない時点の作品であり、最後まで調べて書かれた吉村昭作品を参照したほうが、より詳細がわかるからです。
大黒屋光太夫は三重県鈴鹿市の白子港を拠点とした廻船、神昌丸の沖船頭。天明2年(1782年)12月13日、光太夫を含めた17人が、神昌丸で紀州藩の五百石の米を江戸藩邸に送るために白子浦を出航した。
神昌丸は途中、天候の日和見をするため鳥羽浦に寄港し、暫く滞留する予定だったが、天候がよく鳥羽浦には商船がなく、そのまま遠州灘を横切り、江戸までの海路を急ぐ事に決めた。しかし、その夜半に神昌丸は嵐に襲われた。御用米以外の荷物を捨て船の安定を図ったが失敗。船を不安定にする帆柱を切ることにした。
帆柱を切ると神昌丸は沈没することなく安定したが、嵐が過ぎ去っても操舵する事が不能で、太平洋上を漂流することになった。飲料水も尽きる頃、ついに光太夫たちは御用米に手をつける決心をする。玄米のまま雨水で炊いて食べると激しい下痢に襲われる。漂流から半年を過ぎると死者も出る。死体は海に捨てた。そして・・・やっと島影が見えた。
神昌丸はアラスカ近くのアムチトカ島に漂着したのだ。
*ちなみにアムチトカ島では1960年代にアメリカが核実験を行っている。
幾多の苦難を経験しながら、光太夫たちはアムチトカ島からカムチャッカを経てオホーツク、ヤクーツク、イルクーツク、モスクワを経て遥かペテルブルグで女帝カテリーナに謁見。カテリーナに帰国を請願する。日本との通商を願うロシアはラクスマンに光太夫たちを送り届けさせ通商を承諾させようとする。*(省略しましたが、この間の物語が長くて凄いのです。ぜひ井上靖&吉村昭両氏の作品をお読みください)。
漂流したのは17人だったが、生き残ったのは光太夫を含めて、わずか5人。うち2人は、改宗し(これが当時は重要なことだったのね)ロシアに残った。寛政4年(1792年)9月、10年ぶりに日本に帰ったのは光太夫、磯吉、小市の3人。しかし、小市は蝦夷で死亡してしまう。
ラクスマンは長崎で通商交渉に当たれる権利を幕府から貰い満足してロシアに戻る(ラクスマンはカテリーナが死亡すると失脚したのか消息不明となっている)。
光太夫たちは松前から津軽の三厩、駕籠に乗せられて江戸に向かった。当時、幕府は、幾度も日本に接近を企てるロシアの動きに警戒心を抱いており、最上徳内、伊能忠敬、間宮林蔵らに北方探索を命じている。そこで光太夫と磯吉をロシアとの折衝の際に利用しようと考えていた。2人はロシアの衣服と髪型の姿で江戸城にて将軍家斉と面会した。
桂川甫周は、光太夫に聞き取りし、ロシアでの光太夫たちの経験を「北槎聞略」にまとめた。のちに光太夫たちは帰郷する。光太夫より一足早く帰郷して江戸に戻ってきた磯吉は、故郷の人たちに歓迎された事を光太夫に伝える。続いて光太夫も帰郷し、歓待を受けるものの光太夫は神昌丸の責任者であり、故郷に残された遺族たちの目に耐えられずにすぐに江戸に戻る。
文化2年(1805年)に自分たちと同様に漂流してロシアから帰ってきた仙台藩領の石巻の水夫たちの話からロシアに残してきた2人のうち1人が10年前に死んだ事を知って光太夫は号泣した。
文政10年(1828年)4月15日光太夫は老衰で死んだ。78歳だった。遺体は本郷の興安寺に葬られた。磯吉は天保9年(1838年)11月15日に73歳で死んだ。遺体は光太夫と同じ興安寺に葬られた。前年に大塩平八郎の乱、モリソン号事件が起きており、徳川幕府の屋台骨は大きく揺らぎつつあった。
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大黒屋光太夫は三重県鈴鹿市の白子港を拠点とした廻船、神昌丸の沖船頭。天明2年(1782年)12月13日、光太夫を含めた17人が、神昌丸で紀州藩の五百石の米を江戸藩邸に送るために白子浦を出航した。
神昌丸は途中、天候の日和見をするため鳥羽浦に寄港し、暫く滞留する予定だったが、天候がよく鳥羽浦には商船がなく、そのまま遠州灘を横切り、江戸までの海路を急ぐ事に決めた。しかし、その夜半に神昌丸は嵐に襲われた。御用米以外の荷物を捨て船の安定を図ったが失敗。船を不安定にする帆柱を切ることにした。
帆柱を切ると神昌丸は沈没することなく安定したが、嵐が過ぎ去っても操舵する事が不能で、太平洋上を漂流することになった。飲料水も尽きる頃、ついに光太夫たちは御用米に手をつける決心をする。玄米のまま雨水で炊いて食べると激しい下痢に襲われる。漂流から半年を過ぎると死者も出る。死体は海に捨てた。そして・・・やっと島影が見えた。
神昌丸はアラスカ近くのアムチトカ島に漂着したのだ。
*ちなみにアムチトカ島では1960年代にアメリカが核実験を行っている。
幾多の苦難を経験しながら、光太夫たちはアムチトカ島からカムチャッカを経てオホーツク、ヤクーツク、イルクーツク、モスクワを経て遥かペテルブルグで女帝カテリーナに謁見。カテリーナに帰国を請願する。日本との通商を願うロシアはラクスマンに光太夫たちを送り届けさせ通商を承諾させようとする。*(省略しましたが、この間の物語が長くて凄いのです。ぜひ井上靖&吉村昭両氏の作品をお読みください)。
漂流したのは17人だったが、生き残ったのは光太夫を含めて、わずか5人。うち2人は、改宗し(これが当時は重要なことだったのね)ロシアに残った。寛政4年(1792年)9月、10年ぶりに日本に帰ったのは光太夫、磯吉、小市の3人。しかし、小市は蝦夷で死亡してしまう。
ラクスマンは長崎で通商交渉に当たれる権利を幕府から貰い満足してロシアに戻る(ラクスマンはカテリーナが死亡すると失脚したのか消息不明となっている)。
光太夫たちは松前から津軽の三厩、駕籠に乗せられて江戸に向かった。当時、幕府は、幾度も日本に接近を企てるロシアの動きに警戒心を抱いており、最上徳内、伊能忠敬、間宮林蔵らに北方探索を命じている。そこで光太夫と磯吉をロシアとの折衝の際に利用しようと考えていた。2人はロシアの衣服と髪型の姿で江戸城にて将軍家斉と面会した。
桂川甫周は、光太夫に聞き取りし、ロシアでの光太夫たちの経験を「北槎聞略」にまとめた。のちに光太夫たちは帰郷する。光太夫より一足早く帰郷して江戸に戻ってきた磯吉は、故郷の人たちに歓迎された事を光太夫に伝える。続いて光太夫も帰郷し、歓待を受けるものの光太夫は神昌丸の責任者であり、故郷に残された遺族たちの目に耐えられずにすぐに江戸に戻る。
文化2年(1805年)に自分たちと同様に漂流してロシアから帰ってきた仙台藩領の石巻の水夫たちの話からロシアに残してきた2人のうち1人が10年前に死んだ事を知って光太夫は号泣した。
文政10年(1828年)4月15日光太夫は老衰で死んだ。78歳だった。遺体は本郷の興安寺に葬られた。磯吉は天保9年(1838年)11月15日に73歳で死んだ。遺体は光太夫と同じ興安寺に葬られた。前年に大塩平八郎の乱、モリソン号事件が起きており、徳川幕府の屋台骨は大きく揺らぎつつあった。
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