一昨日1月8日亡くなった母はその日のうちに、ホスピスから葬儀会館へ。

 

その日は何の用意もなくホスピスに向かいました。夜には兄夫婦と、兄嫁のご両親と弟夫婦が来てくださり7人で少し時間を費やしました。20::00ごろ皆いったん帰宅しました。次の日に葬儀に関する詳細についてスタッフと話をするのですが兄は私に「別に来んでもいい。」と言いました。

 

私は帰宅しても夜中の3時に目が覚めそのあと寝付けません。結局6時に家を出て葬儀会館に向かいました。到着は8:00でした。

 

母を撮った写真のSDカードをPCで見ながら色々話しかけるのですが涙が止まりません。

 

9:30に係の人が来て1時間ほど費やしました。内容は最も簡素な火葬式にしました。母は7人兄弟の一番上でしたが、5人の弟妹はすでに他界し、残った一人は脚が悪くて動けません。

 

従兄弟たちもそれぞれ遠方に住んでいたり、あるいは疎遠になっていたので、お通夜はしないことにしました。

 

相談が終わり、私はそのまま2時間かけて職場に行きました。締め切りが迫っている仕事を一昨日午前に行う予定でしたが、できなかったからです。

 

夕方に仕事を済ませ、そのまま葬儀会館に向かいました。

 

到着は20:00。

 

「ただいま。寂しかった?遅くなってごめんね」

 

葬儀会館の布団を母の遺体の横に並べて敷きました。寒いので家から敷毛布と掛毛布を持っていきました。

 

「いっつもこうやって、お母さんの横に寝てたなあ。お母さんはテレビを見て、僕はPC開いてたなあ。ほんで『おトイレ』とか『なんかおいしいもの食べたい』という声を聴いてご飯食べたりしてたなあ」と語りかけます。

 

エンゼルケアをしてもらった母は97歳には見えません。80歳くらいに見えます。

 

一応仲間内の追悼式をしてもらうことにしたのでその段取りを友人と打ち合わせました。

 

「今日は夜伽やけど僕一人なんや」というと電話で1時間付き合ってくれました。バカな話で気がまぎれました。

 

途中もう一人の古い友人に電話しました。石川県津幡にいます。揺れは相当ひどかったと言っていました。道路は寸断され、何より困るのは断水だそうです。友人のご両親もよく知っていますが、すでに亡くなられているようで、その時の話を聞きました。2015年に能登半島を一人旅をした時のことを話したりしました。

 

途中で「実はなあ…」と言って、母のことを話しました。話しながら号泣です。鼻血も出ました。

 

母を失った悲しみは、被災者の悲しみをわがことにように感じさせます。話を聞くつもりで電話したのですが、聞いてもらうことになりました。「いつでも聞くよ」と言ってくれました。

 

再びバカ話をする友人に電話し午前零時を回ったところで休むことにしました。合計3時間くらい話をしました。ありがたい友人です。灯りはつけたまま寝ました。

 

今日は午前3時にいったん目が覚めました。母の顔を見て何か安心しました。

 

再び寝入り5:00に目が覚めました。

 

いつも朝になると母は「今日のご予定は?」と尋ねます。

 

「今日は僕仕事、お母さんはデイサービス、だから起きてご飯食べなあかんよ」というとむくむく起きます。両手引きをして二人でトイレまで「よいしょ、こらしょ、どっこいしょ」と言って歩きます。

 

「トイレ行って、入れ歯入れなあかんよ。」

 

この時期お湯が温かいと「気持ちいい」と言ってずっと手を温めています。お風呂が好きな母ですからね。

 

食卓について嚥下体操をし、「神武、綏靖…」「東風吹かば…」「元明元正…」で発声練習をし、舌を左右に動かしたりします。

 

私の仕事がない時は「今日はゆっくり、ねんね!」と言ってテレビも前のソファに連れていきます。

 

そのルーティーンな会話を今日もしました。返事はないのですが、その様子の録画を流しています。

 

顔にかけた布を取って「お母さん、今日はな、こないだ肋骨骨折で入院した病院で検査するから午前中いかなあかんねん。ごめんやけどそのまま一人でおってな。また戻ってくるさかい」