翌日5月3日の岡山駅はまさにさつき晴れでした。岡山始発の新幹線はすでにホーム入っていました。全国ニュースだからというのもあったのでしょうが、マスコミ各社が数多くそのホームで遺族の到着を待っていました。
ほどなくして、高田警部の奥様、お母様が県警の制服警官にエスコートされて現れました。さすがに押し合いへし合いでの取材とはいかず、各社ともやや遠巻きに移動を追いかけていました。
前夜のお父様の写真を撮り損ねたこともあり、私はなるべく奥様の近くに位置をキープして乗り込む車両まで行きました。
そして車内に遺族が入り、着席。私はカメラを構え、発車寸前の窓にレンズをくっつけました。窓から離れて撮ると窓が鏡になって車内が映らないからです。合わせ辛いピントを合わせ、シャッターを切った時には発車のベルが鳴っていました。私一人でそのアングルを独占するのも悪いと思い、他社のカメラマンに場所を譲って後方に引きました。これが次のラッキーを生みました。

私が引いた位置に、H沢本部長が見送りに来ていたのです。TVカメラは駅から離れる新幹線を撮り続けています。新聞のカメラマンは一仕事終えて改札に向かって移動し始めていました。千載一遇のチャンスです。本部長の周りには私しかいませんでした。

私「昨夜のご訪問で、ご遺族はなんとおっしゃってましたか?」
H沢本部長「突然のことでかなり混乱されてましたね」
私「なんとお言葉をかけられましたか?」
H「県警の責任者としてお悔やみとお詫びを申し上げました」
私「今後はどういう流れになりますか?」
H「ご遺族が現地で確認して、なるべく早く日本に戻してもらうことになるでしょうね」
私「県警葬ですか?」
H「そうなるでしょうね」
改札に向かうわずかな時間でしたが、字にできるコメントが取れました。後は「二階級特進」のタイミングと遺体が岡山に戻ってくるタイミング、県警葬の取材などを残すのみとなりました。

(続く)
最近いいことあった? ブログネタ:最近いいことあった? 参加中


先月の25日に帝王切開で生まれた巨大児 ですが、生後16日目の本日、ついに開眼したそうです。

アメリカンフットブログ-brjr
              この状態が生後4日目くらいでした。

                        ↓

アメリカンフットブログ-j2
               まだ表情がないのは、ご愛嬌です。

あるブリーダーさんに聞いたところでは、ブラウンはブラックの劣性因子らしく、ブラウン同士の掛け合わせでのブラウンジュニアなんですが、幸いブラウンをキープしています。
11時半近くなってT村、T島から相次いで現着(現場到着)の連絡が入りました。続けて県警のKからは水島署で父親のメッセージを署長が代読する、H沢本部長が実家に向かったとの連絡が入りました。
父親本人ではないものの、いわゆる「絵になる」ものは手に入りそうでした。まず水島署のT村のポケベルを呼び、折り返しの電話で代読の写真を撮影次第戻るように伝えました。
まだデジカメもないアナログのネガフィルムの時代です。現像、焼き付け、本社への電送という手順を経ないと写真は日の目を見ないのです。すでに12時近く。大急ぎで戻ってきて処理しても最終版の締め切りギリギリです。処理に必要な現像液や定着液を新品に作り直して、再び「待ち」の時間になりました。

2度続いた不幸でしたが、その日の締めとなる締め切り寸前にT島がいい仕事をして戻ってきました。水島署の代読で写真のメドがついたことで、実は実家前に張り込ませていたT島のことは忘れていたのですが、T村と相前後して戻ってきたT島は実家を訪れたH沢本部長の写真をばっちり撮影してくれていたのです。
発生当日の作業が全て終わったのは、日付が変わった5月3日の午前2時を過ぎていました。ソファーで寝ていたIも帰し、県警のKにも連絡、遺族が明日朝の新幹線で上京し、カンボジアに向かうとの情報を得て社会部にその旨伝えると、最初に電話してきたOデスクから「悪いなあ、支局長もいないみたいだし、明朝のカバーも頼むわ」とのありがたいお言葉。

出発時間を確認した私はわずかな睡眠を取るために、愛車のセルを回し、深夜の街を自宅に向かったのでした。

(続く)
休日の夜10時過ぎ。支局のある岡山市中心街は人通りも絶え静かなものでした。2人が移動中、1人は県警待機ですから、私はTVのチャンネルを変えて関連のニュースをチェックするくらいしかない「待ち」の時間帯でした。
まず、電話が鳴りました。県警で新たな動きがあったのか、社会部からの指示かと思って電話に出ると、GWで帰省中の支局長からでした。

支局長「大変みたいだな。俺も戻ろうか?」
私「とりあえず全員出勤させてます。対応してますから大丈夫ですよ」
支「そうか、なんかあったら連絡くれ。すぐに帰るから」

当時の支局長は雉大学の先輩でしたが、緊急時の対応という雰囲気ではなかったような気がしました。現場がこちらではないからもあったのでしょう。今夜がヤマだとも思っていたので支局長にはゆっくり休んでいただくことにしました。

そんなやり取りの最中に支局のドアが開きました。警備員さんの巡回かと思い、そちらを見ると、その春に本社に転出したIが「こんちわ~」と入ってきました。

私「あれ?どうしたの?」
I「GWでカミさんの実家に来てたんですよ。なにかお手伝いしようかな、と思って」
私「それは助かるんだけど・・・・お前、飲んでない?」
I「ええ、したたかに・・・」

岡山在勤時代から酒が好きな男でした。申し出はありがたかったのですが、まさか酔っ払いをクラブに行かすわけにもいかず、かといって彼を留守番にして私が出かけるのも不安です。「しばらくやすんで酔いを冷ませ」と言うと彼は支局のソファーですぐにいびきをかき始めました。

記事は外務省発のものも含めて、何本かがモニター用のファクスから流れていましたが、やはり写真がありません。その時、TVから我社にとっては致命的な画像が流れてきたのです。
それは雨の降る水島の実家前でマスコミの取材に答える高田警部補のお父さんの映像でした。T村とT島が水島に向かってまだ1時間経っていません。休日の夜間移動とはいえ、1時間以内に着けるはずがありません。それでも確認せざるを得ず、2人のポケベルを鳴らしました。折り返しの電話が来るまでの約10分、すでにTVではインタビューは終わっていました。
2人からの連絡は予想通り、まだ到着していないというものでした。私はT村を水島署に、T島を実家に向かわせることにして次の展開に備えることにしました。

(続く)
高田警部補の実家がある水島というのは岡山市の隣です。瀬戸内海に面した日本有数の工業地帯で、車で1時間以上かかります。実家避難が判明したのが夜の9時近い時間、まだワープロでしか原稿を送れない時代ですから、取材をして支局まで戻り原稿を出さなくてはなりません。つまり、往復3時間と考えると、朝刊の締め切りに間に合わない可能性があるのです。
これだけTVなどのメディアが発達していても、新聞社や通信社には朝刊の締め切りを意識して原稿を出すという習慣が残っています。全国紙のように広範囲で新聞を発行している場合には、遠隔地から順次締め切り時間を設けています。紙面の欄外左上などに「12版」とか「13版」と表示されているのがそれぞれの締め切りを示しています。通常は「13版」が最終で、首都圏の大都市部で配達されます。大きな事件や選挙速報などで締め切りを延ばす場合には「13版●」とか「14版」と表示されます。
また、現場から出る原稿がそのまま紙面に反映されることはありません。それぞれの出稿部のデスクが原稿をチェック、足りない部分やわかりづらい部分を確認、修正して初めて記事の体裁となるのです。ですから記者自身の原稿作成の時間以外にも余裕を見ておかないと朝刊の締め切りには間に合わなくなってしまうのです。
初めての大きな事件発生と残された締め切りまでの時間に、T村は焦っていたようでした。購入したばかりの新車で官舎前から水島に向かおうとして、ハンドル操作を誤り、電柱に車の左前面をキスさせてしまったのです。幸いヘッドライトなどは無事だったので、そのまま出発したそうです。

その頃、県警ではようやく外務省に確認が取れ、「カンボジアに派遣されていた岡山県警高田警部補が、現地で移動中に反政府ゲリラに襲撃され、死亡しました」と正式発表されていました。当時の県警本部長は今では衆議院議員としてTVなどにも出演されているH沢K栄さんで、彼もその春に着任したばかりでした。H沢本部長の「誠に残念」というコメントをつけてKが記事を出稿しました。
次に必要なのは写真です。留守で電気のついていない官舎の写真はあるのでしょうが、T村もT島も水島に向かっており、今ポケベルで呼び出せば、その分到着が遅れてしまいます。ここは我慢して待つしかありません。

そして、次の瞬間に第2の不幸と乱入者を私が襲うのでした。

(続く)