アメフトの審判を始めた時の目標があった。現役時代、チームとしては雲の上以上の存在だった「甲子園ボウル」。いつかあのグランドに立ちたい、審判として立てるまで、審判を続けてみよう。そう思って、毎年20~30試合で笛を吹いてきた。
審判経験が15年を越えた頃、ボチボチお声がかかるかな?という期待もあったが、なかなかうまくいかない年が続いていた。日大が全盛期を過ぎ、甲子園初出場のチームが関東から遠征しだしていた。その間に私も横浜や岡山に転勤。行く先々でアメフトがあり、友人も増えていった。
岡山では関西審判部に所属。生まれが神戸の私にとって、飛び交う関西弁の会話は懐かしくもあり、居心地のいいものでもあった。
最初に甲子園ボウルの声がかかったのは、その岡山でのことだった。グランドの中に入れるわけでもないチェーンクルーとしてだったが、(甲子園に立てる)と感激したのを今でも覚えている。専修大学が関東から初出場した年。前半あっという間に関西学院に得点を重ねられた専修だったが、第3Qの関学のパスインターフェアの反則から息を吹き返し、終わってみれば初出場にしては上々の敗戦だった。
関東では法政大学が図抜けた強さを発揮し始めた90年代後半。それでも関西との差は歴然としており、阪神淡路大震災の年に東京に転勤になり、関東審判部に復帰していた私にとって、関東のふがいなさを毎年実感していた。
そんなことが続いた97年。関東はやはり法政が優勝、関西では関学が優勝して甲子園ボウルの対戦相手が決まった頃、私に甲子園ボウルの関東派遣の話が舞い込んできた。年功序列で順番だったのか、実力が認められたのかは定かではない(私としては後者であってほしい)が、若手の2人とともに甲子園ボウルで笛を吹く名誉がやってきた。
ルールブックがあるとはいえ、関東と関西では多少ルールの運用方法で違いがある。自分自身で経験していることだが、なにせ学生日本一を決める大試合。前日には関西のクルーと試合の流れも含めて打ち合わせがある。数年ぶりの関西審判部の面々は暖かく私たちを迎えてくれた。私のポジションはSJ。なんと関学サイドのバックフィールドではないか。岡山在住時に何度か関学の試合でも笛を吹いていたが、こんな試合で関学サイドとは、名誉でもあるが緊張度も半端なものではなかった。しかもベンチの後方には、観客のほとんどがルールに精通した関西のファン。関西での審判経験でなにがつらいといって、観客のルールを知り尽くしたヤジほどつらいものはないのだ。
その晩の懇親会を早めに切り上げ、翌日の試合に臨むべく、早めに睡眠をとったのだった。
(続く)
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