聖闘士星矢を知らない方もいるかもしれませんが、同じジャンプ漫画の『BLEACH』や『テニスの王子様』の源流に当たる作品です(テニプリ関係ないじゃんと思われるかもしれませんが、話の作りやキャラの立て方がまるっきり同じなんですよ)。
今回は25年も前のマンガをスピンオフで完全新作アニメにするという暴挙。全員壮絶な死を遂げている黄金聖闘士(ゴールドセイント)を一気に蘇らせるという暴挙。聖闘士星矢だからできたことですね。
原作では黄金聖闘士が全員揃ったのは嘆きの壁の前の一瞬でしたし、なんせ物語が始まった時点で既に亡くなっている人がいたりしますから(笑)、あれだけすれ違いやらわだかまりやら因縁やらあっても原作ではほとんど解消されることなく、脇から主人公の聖矢が突き進んでいくための物語を昇華させながらもどこか読者の胸の内にもやもやを残していたわけですが、今回は見事にそれが霧消。無理のある設定で始まったアニメだったので最初はどうかなと思って見ていましたが、最終的にはよくぞやってくれた!という気持ちで万感の内に終幕しました。脚本家の方は本当に大変だったと思います。
このアニメ、原作では不遇だったキャラの魅力を引き立ててくれました。蟹座のデスマスクの小物ながらの茶目っぷりや、魚座のアフロディーテの美への信念、牡牛座のアルデバランの教育者っぷりが全開だったりと、いいところが沢山あったのですが、僕は昭和漫画の良いところで、聖闘士星矢も大人がちゃんと大人していますが、原作では既に亡くなっていて活躍する機会がなかった射手座のアイオロスが復活したのは大きかったなと思います。
裏切り者のサガを赦して彼の艱難辛苦を察し、弟の獅子座のアイオリアと再会を果たしてその成長を激賞し、そして黄金聖闘士全員を一矢に導く。
これに感激しない射手座男子がいようか(笑)
胸がすく思いでした。
アニメスタッフに敬意を表します。
さてここから少し話が変わって少年漫画全般の話になります。
黄金聖闘士という究極の脇役が主人公だった特殊なアニメを見た後で、
脇役というものについて少し考えを述べてみたいと思います。
黄金聖闘士たちがいかに主人公たちを圧倒する人気を博しているとはいえ、原作の中では今回のスピンオフみたいなことは決してできなかったでしょう。
それには理由があって、脇役を立てすぎたり、脇役の事情を説明しすぎると物語が膨れ上がって破たんするするからです(良くも悪くもワンピースがその代表)。
昔の漫画はジャンルを問わず、主人公が一番!というのが徹底されています。普段いかに無力で情けなかろうが(例:ドラえもんののび太)、いつも頼りになるのに不在がちだろうが(ドラゴンボールの悟空)、とにかく主人公を一本通して話が完結する。
ジョジョは目立ちませんが、実は常に主人公と準主人公がいて、準の方が主人公に希望を託して終盤で絶命するという巧みな構成です(承太郎とジョセフ、ジョルノとブチャラティなど)。
その脇役の中に必ず主人公より上位のキャラクターがいて、大昔は敵か第三者ポジションにしかいなかったのですが(例:手塚マンガ全般)、平成に入って師匠だったり元勇者的な父親だったりすることが多くなってきました。
聖闘士星矢はキャラの大半を占める聖闘士(セイント)が全員孤児という設定ですから親はいません。親を絡めないから上位脇役が作りやすく、黄金聖闘士が12人もいても成り立つという特殊な構造をしており、基本的には全員最強みたいな扱いなので、1人いるだけでも存在感がありすぎて、同時に複数出すことが難しい。ましてや12人揃えたら主人公たちのことを読者が忘れてしまう。
というところで、『聖闘士星矢 黄金魂-soul of gold-』では開き直って原作の主人公たちを一人も出さなかったわけですね。心のどこかで青銅聖闘士あっての黄金聖闘士かなと思っていましたが、青銅聖闘士がいなくても、他のキャラがその役割を引き受けてくれたのでやはり聖闘士星矢は黄金聖闘士彼らの物語なのだと実感しました。