ダーリンコラムより一部抜粋です。
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よくよく考えなくたってわかるよね。
絶対に、あらゆる他人に理解されるなんてことないし、
好かれることなんて、もっとありえない。
のに、そういう幻の可能性を追求しちゃうんだなー。
そして、ひとりやふたりの「理解してくれない人間」や、
「嫌っている人」を発見するたびに、
なぜなぜ、どうしてどうしてと、悲しんだりね、
どうすればわかってもらえるんだろう、と、
考えさせられちゃったりするんだよなぁ。
ふ・し・ぎ。
「誤解です誤解です」とかね、
「誤解されたまま生きていくのは気持ちわるい」とかね、
「嫌われるようなことって、何かしただろうか?」なんてね、
どんなに考えたって、永遠に解決なんかしないのにねー。
そのときに、思い出すのは岡本太郎だったね。
「誤解の満艦飾になれ!」って、言ったんだなぁ。
理解されるなんてことが、あると思うのが誤解だ、ってね。
誤解を呼び寄せるエネルギーを身に付けよう、とね。
すごいだろ。
これを言えるようになるまでには、
岡本太郎も、おそらくだけれど、
さんざん誤解と戦おうとしたんだと思うんだよ。
でも、きっと「はっ!」と気づいたんじゃないかな?
そのへん、ぼくの誤解かもしれないけどね。
誤解を飾り物や勲章やバッジやリボンのように、
すすんで身にまとってしまおうではないか、ということ。
そうしたら、それは逆説的な価値になる。
かっこいいし、本質的な生き方だよね。
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以上のコラムを読んで思う。
「誤解」「理解」
難しく考え過ぎるんだろうか。
「哀しい」という感情にすぐとらわれてしまうのは。
対する相手にもよるのだろうけど、嫌われる事は構わないけど、
「理解」されていないのは、哀しい。
「誤解」されているのは、哀しい。
逆もありき。
ただのバカ、チョーがつくくらいバカだけど。
「哀しい」という感情は持っている。