
夏休みの前に息子が幼稚園から持って帰ってきた朝顔の種ができてきた。朝顔の成長を見続けたのは随分と久し振りだった。出来た種は、年中の子供達に受け渡すみたいだ。
毎日水をあげて、葉がたくさん生え、花が咲き、葉が枯れて、種が残った。この夏は何故か自分の境遇と重なるように見続けた。自分もいつかは枯れきって、少しばかりの蓄えを残して次の世代に引き継いでいく。皆順番だ。特に珍しい話でもない。逆にそうじゃないと、いつまでも新陳代謝が起こらず、世の中が腐っていく。けれど、何となく、枯れていく朝顔に寂しさを感じてしまう。地面にしっかり根をはって、自分の力で茎を空に向かってどんどん伸ばそうとしている息子の姿と、色々な記憶を失いながら終末に近づいていく親と、その間にいる自分。ノルウェーの森の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」という言葉を何となく思い出した。
僕も、息子と一緒に暮らした記憶をいつか失っていくのかもしれない。1Q84に「ある年齢を過ぎると、人生というものはものを失っていく連続的な過程に過ぎなくなってしまいます。あなたの人生にとって大事なものがひとつひとつ、櫛の歯が欠けるみたいにあなたの手から滑り落ちていきます。」
という言葉があったが、自分が失うものの中で、「記憶」を失っていくことは最も辛いことのように思う。記憶があるからこそ、明日があるし、希望も生まれてくるような気がする。記憶がなければ、いつ人生が終わっても、後悔も悦びも何も無くなってしまう。まさに「無」になってしまう。それが人生なんだよと言われても、全くワクワクしてこない。