チャレンジした結果がどうであれ、チャレンジしなかった自分と比較した際、自分自身に納得すること… | also171のブログ

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 チャレンジした結果がどうであれ、チャレンジしなかった自分と比較した際、自分自身に納得することができる。この「納得感」が貴重なのである。 チャレンジした結果、さまざまな波乱に遭遇して初めて平凡な家庭の幸せに気付くのも、実は似た現象だ。平凡な毎日を過ごしている時にはなかなかこれに気付かない。これらは人生の一つのパラドックスと言える。 賢い人々はそれが分かっていて、転ばぬ先の杖を常に用意しているのかもしれないが、そう単純に世の中はできておらず、その人々にはその人々なりのどんでん返しのドラマが用意されている。一方、波乱万丈の苦労人生の中で稀有な人徳を獲得される方々も存在する。 人生には「その時初めて知る」ということが満載で、自身の「目の昏(くら)さ」には気付きにくいということらしい。人は肉体の衰えと引き換えに精神の充実に向かう 一方、気力と精神性は少々ニュアンスが異なり、気力は充実しているが精神的な「時熟」(人間性の完成)という意味では幼い方も存在する。人としての精神性の充実という観点では、50歳前後でようやく世の中の理(ことわり)のようなものが見え隠れしてくる。今まで「そうではないかな~」と思っていた、いくつかが線となってつながり始め、ある考え方を形作るという経験をするのも事実である。 いやむしろ、精神の時熟は65歳を過ぎてから、という説もある。ある作家の「人は死に向かって人間を完成させてゆく」という言葉があるが、肉体の衰えと引き換えに精神の充実に向かうとすれば、それは願ってもないことであり、老いを生きる意味が生まれてくる。興味深い話である。 今の60歳は、昔と比べ体力、気力に溢れている方も多いのだが、体力、気力の維持とは別に、精神性の時熟を追い求める人が最近激減しているような気がしてならない。 昔は長老という精神的支柱が存在した。せっせと老化防止に精を出すのも結構なことだが、外見ばかりで内面は発想も感性も精神性も取るに足らない老人となってしまうのは大変残念なことである。ましてや、この精神性は死ぬまで発展を続けるのが本当なら、もったいない話だ 以下は、好きな作家の言葉だが、読み返すたびに自分の目の昏さを思い知らされ、また、現在の仕事をまだこれから10年ほど続けられるであれば、それはそれで望外な幸せである事が分かるのである。