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長年私の足を洗うようにして私を導き育ててくださつた恩師は、元ニューヨーク大学宗教歴史学教授A先生である。キリスト教の牧師を兼ねておられた。


言うまでもなくA先生は敬厳なクリスチャンであり、いつも私にこう教えられた。
「クリスチャンとして深い信仰生活をするには、日々十字架の体験をすることです。
Iは、私ということ。そのI即ち、私を横に切ると十字架になります。神さまに自分を捧げつくして、神さまのお導きによって生きるのです。」
この先生の教え通りの信仰生活に入りたいと私は一生懸命努力をした。
しかし文化の違いか、仏教徒として育ったからか、A先生の教え通りにすると自分で自分を生殺しにして しまうことになってしまった。
なぜなら、I(自分)を横に切るという十字架は、即ち、完全な自己否定だったからである。
あるいは、キリストさまに自分の人生をハイジャックさせることだったのかも知れない。
生殺しの私、煩悩の多い私にはキリスト教の真髄が分かるはずもなく、罪悪感のとりこになってしまうばかりであつた。
A先生自身も、生身の自分とクリスチャンとしての信仰とのギャップで悩んでおられたことは確かであった。
自己否定しながら生きることは、虚無の世界を生きること。
全米で大ベストセラーになった「はてしない物語(The Never Ending)の主人公アトレーユの二の舞の人生をおくるようになってしまうかもしれない。


仏教や心の病の治療で世界的な有名な療法では「自分の心の安定を得るには、あるがままの自分で生きるように」と教えられているがどの程度のあるがままでいいがわからない。
心理学、特に交流分析では「アイ.アム.オッケー(iam.OK)ユーアーオッケー(you are OK)を学ぶ。


しかし、どの程度のOKでいいのか迷ってしまう。頭でわかっていても胸に落ちてこないからである。
自分の生身の性格分析をしてみても、その効果はさっぱり感じられず、言葉の遊びのようで無駄なことだつた。
暇があればというより時間を作って宗教や心理学、催眠術などの本を読みあさり、心の安らぎを求めてあちらこちらとさまよい歩いた。
そのためにお金も随分使ったどこへ行ってもごもっともな話で感心はするけども、私自身が心の底から求めている問題に対する解決の糸口にはならなかった。