ウィルを卒塾した生徒たちが、たまに教室に遊びに来て、高校での話や、後輩へのアドバイスを求めると、結構残念な価値観になってしまっていることが、それ相当な数ある。
「あれは無駄なのでいらない。」
「先生が何を言っているか分からないから、内職(他の勉強を授業中にすること)
すればいい。」
「とりあえず〇〇だけやっておけばいい。」
といった、コスパに重きが置かれた思考になっているケースだ。
勿論メインは学習のことだから放っておくわけにもいかず、そういう発言が多くなっている卒塾生と話すと、なんと言って諭せばいいのか困るものだ。
私立大学の入試においては、受験科目が3教科に絞られることが多いためだろうか。
それとも、効率よく点数を稼ぎたいという、高校生という思春期特有の発想が招いているものなのだろうか。
今の高校生に限った話ではない。「いかにコスパよく合格するか」を優先し、学びそのものの本質を見失っている場面に出くわすことは少なくない。
しかし、ウィルの卒業生で講師として戻ってきてくれる面々を見ていると、彼らは口々にこう言い切る。
「いらない科目なんてない。やれていなかった自分が恥ずかしい。」と。
例えば、私立文系であれば受験には直接使わないとされる数学や理科、あるいは芸術や体育といった副教科、さらには日々のホームルームや行事での係活動に至るまで、学生時代に出会うすべての学習や経験には、必ず意味がある。
歴史を学ぶことで人間社会の仕組みや先人の思考の深さに触れ、理科の実験や考察を通して論理的思考力を養う。
あるいは、苦手な科目から逃げずに向き合うことで、粘り強さや忍耐力が身につく。一見すると遠回りに思えるそうしたプロセスこそが、その人の土台を分厚くしていく。
そうやって、完成しきらなくたって、積み上げてきた一つ一つが、その人の背景知識やあたり前のラインの形成に色濃く反映される。
細かくカテゴライズしようとしたり、効率の良さばっかり考えたりでは、勿体無い。
人の価値観が発言を引き出すこともあれば、その発言が価値形成をすることもある。
どんな考え方を持ち、どのような言葉を発するかによって、人間の器は形作られていくように思う。
だからやっぱり、安易なコスパや効率ばかりを追い求めるのではなく、正攻法やまっとうな方法をあえて選び、それを正当化することが、表面的には見えないものでも、結果としてその人を大きく成長させ、揺るぎない人格形成に繋がるのではないだろうか。
大人の言う「正論パンチ」を、子どもたちは時として嫌がるものだ。
「そんな理想論を言われても」「もっと楽な方法が知りたい」
と反発したくなる気持ちも分からないではない。
それが思春期や反抗期なんだし、自律のタイミングだから。
しかし、その正論から目を背けず、まっとうに受け止めて愚直に行動すること。
それが、実は遠回りに見えて一番確実で、色々な意味で成功への近道なのかもしれない。
効率や損得勘定の波に飲み込まれそうなときこそ、あえて正面から物事に向き合う強さ。
そんなものを持てたら最高にかっこいい。
最後に、やはり残念なこと。
中学生時代、いるいらないなんて気にせずウィルで愚直に学んでた生徒たちが、高校生活を送る上で、そうなっていってしまうこと。
そんな教え子たちを見るのはやっぱり寂しい。
だってウィルはそういう価値形成こそが、人間性やそれに順ずる結果を導くとずっと伝えて育てているから。
では。