学習塾に登場するのは子どもたち、となると、「傘」「水筒・タンブラー」「消しゴム」「ペン」この辺りを教室に忘れていく現象が後を絶たない。

 

場合によっては、カバン丸ごと忘れていったり、机の下に入れたままになったファイルやプリントが置かれたままになったりする。

 

今日などよく自習に来る高校生が、ipadを失くしたと慌て気味に教室に来た。

 

 

こうやって自分の忘れたものや失くしたものを把握して、「やっちまった~あそこに置いたままのはずだ・・・」となる分には問題ない。(ipadはまだ見つかっていないようだが)

 

先の忘れ物たちの場合、ほとんどのケースで忘れている事すら「忘れている」、もしくは「認識していない」状態なわけで、「忘れる」レベルを通り越して「忘れ去る」というなんとも悲しい状況となっている。

 

すでにその存在を覚えていない、なくても違和感がない状態。

非常に恐ろしいし悲しい。

 

こちらから忘れていたものを提示して、やっとそこで気づくようなことも多くある。

 

特に傘や水筒などは大きく持っていなければ違和感を持つだろうし、筆記用具は筆箱を見ればわかる。

 

 

それでいて、失くしてしまうことについて確認をしてみると、「いつか出てくるでしょ」「自分のお金で買ったものなので大丈夫です」と返ってくることもある。

 

君たちの「自分のお金」は自分のものではあっても、「親のお金の一部分」であって、まだ稼いだこともない状態でこのような事を言うものではない。

 

 

物の大事さや執着の仕方は時代とともに変わるものなのだろうか。

 

時代の価値観が、どんどん消費することに対して許容できる状態になっているのかもしれない。

 

 

考えてみれば、冨田世代の親は大量生産・大量消費・大量廃棄の時代であるともいえよう。そうなれば、子どもたちにも同じような、もしくは拍車をかけた価値観が受け継がれる可能性は高いわけだ。

 

自分の子は大丈夫だと思っていても、案外、外ではそうではないのかもしれないと不安にも思う。

 

 

学習についても「与えられるもの」は「また、いずれもらえるもの」と認識しているのであれば、忘れ物と同じように「忘れ去られる」レベルのものになってしまう。

 

そういう認識を変化させる働きかけもまた、我々が求められている大事な要素なのかもしれない。

 

 

そういった意味で「学力」とは点数をとることだけになく、ヒトやモノを大切にできることにも付随しているのかもしれない。

 

 

大量に置き忘れて、放置されてずっと景色が変わらないでいる傘立てを見て思った。
 

 

おうちに傘がないようでしたら、お子様にお声がけ頂き、ウィルも確認対象にしてくださいませ。

 

 

では。