ほぼ同じ偏差値層の生徒を集めている私立高校が10数校もある首都圏。
入学時点では差がない。にもかかわらず、卒業後を比較するとかなりの違いがある。
その差を生む要因はいったいどこにあるのか?
授業見学は幾度もさせていただきましたが、先生の技量に大きな差などありませんでした。
どこにも良い先生はいて、残念な先生もまたいるのです。
確かに、考えてみたらそうです。
東京大学に最も合格者を出している開成高校。
なぜ東大に半数近くも合格するのか。
(→ 昔のブログの記事)
開成の先生の指導力?生徒の能力?
いやいや、彼らと比べて、麻布や海城の先生や生徒がそんなに劣っているでしょうか?
近年、川越高校から東大に受かる人が少なくなってきているのもおそらく同じような理由ではないでしょうか。
合格できる力を持った生徒が減っているというよりも、「ま、合格するだろうな」と思って受けている生徒が減ってきているのだと思います。
川越や大宮、浦和クラスに、奇跡とかじゃなく実力通りで合格したような生徒であれば、全員が最難関レベルの大学に合格できる力はありますもの。
まず、できると思えるかどうか。
できると思わなければ、やりません。
仮に無理やり仕向けたとしても、実力なんか出せません。
そして、さらにその上が、できるかどうか、それすら考えない。
だってそうなって当たり前だから、という心理的状況。
大きな違いは、その学校が与える心理的影響にあるのではないか。
言い換えるなら、伝統が創り出す「場」の力。
どのレベルを当たり前とするか、そのラインが「クラスごとに違う」、あるいは「教科ごとに違う」では大きなうねりは起きません。
おそらく、3年間の継続性がないからでしょう。
校内で引かれた当たり前のライン。
これが大きな力を生むのだと考えました。
人間、当たり前となっていることについては疑問を持ちません。
ゆえに多少難しいことでも、そこに苦は生まれにくい。
たとえるなら、日本人の時間感覚。こと始業(出発)においては1分の遅れさえも罪悪感を持つこの感覚。
東南アジアだけではなく、イタリアやフランスのような南欧諸国からも驚かれるほどです。
「なぜ日本人は皆が皆、あんなにも時間に正確なんだ!」
では、日本人は全員、時間的感覚において、生まれながらに優れているのでしょうか?
違いますよね。
みんながやっているから、それが当たり前だから、さほど苦も無くできているんです。
日本人だって、10年とか東南アジアに住んでいたらlazyになっていくかもしれません。
(昨日、ブルガリア人の友人とskypeで話したときに、やたらと東南アジアを「みんなlazyで癒される」と言っていたのでパクりました
)
これだ!
この「当たり前のレベル」を育てていけば、先生の個人技に頼らない、どんな生徒でも伸ばせられる学び舎になるんじゃないか?
・・・それから5年。2008年に書いたブログがこれです。(→ 昔のブログの記事 その2)
長くなりましたね、次で最後にします。
読んでいただきありがとうございました。