量を質に転化するには、自問自答できる力、何が何に繋がっているのか体系的に捉える力、いわゆる論理的思考力が必須です。
それがまだ未熟な段階で量を闇雲にやらすことは、まさに闇の中で雲をつかむよう、害にすらなりかねません。
どうも日本人って、雨の日も雪の日もただひたすら剣を振った・・・みたいなのが好きですよね。「読書百遍意自ずから通ずる」ってヤツ、あれ大嫌いなんです。
どんな難解なものでも、100回熟読すれば、自ずと意味がわかってくるのだ。わからないのは気合いがたらんのだ。気合いだ、気合いだ!
そうやって、まだ年端のいかない子に四書(大学・中庸・論語・孟子)や五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)といった難解な漢籍を読ませるわけです。
こんなの僕に言わせたら指導者の怠慢ですよ。
量をやらせたらできるようになるってのは、教え子自身の能力に委ねる、とても指導とは呼べない愚策だと思います。
量をこなさせれば、できるようになったという人は、思考力が備わっていた状態で量をこなしていたからです。
量をこなして、できるようになったケースを見たことがある、という人は、そういう人の目に見える行為を見ていただけでしょう。それができた人の頭の中を見ていない。
量をやらせるに見合う状態にあるかどうかを見極める。
その時期が来たら、量はあくまで結果であって目的ではないということをしっかり伝えながら、そばに寄り添いつつ慎重に量をこなさせる。
野球の素振りと一緒です。
目的はフォームを固めること。
どう振れば強く振れるか、バットの芯がどこに行くのか、を身につけること。
その意識無しに回数だけやっても効果は薄い。
フラフラになりながら、朦朧としながら、無になってめちゃくちゃなフォームで振っていても努力の割に効果が少ない。
しっかりとした目的意識をもって行うこと。回数は自ずとついてきます。回数は結果でしかないんです。
追記
ちなみに、知識の暗記は別ですよ。
知識はあればあるほどいいですし、やればやっただけの成果が得られやすいですから。(ディスレクシアなどの後天的な事例を除く)