蒼き清浄なる地球に黄金の時代を。この世界にも来るべき終わりがやってくる。我々人類が多くの搾取と快楽を得てきたためにその高すぎる債務を払わなければならない。しかし、今やその債務は資産を凌駕し、我々の資産を持ってしても払うには遅きに過ぎるものと思われる。怯懦、杜撰、欺瞞、無能、虚偽、それを持ってもそれを携えながら人類は、それらを蓋いながら生きていく。それは仕方の無い事だ、それは許されざる愚行だ、ということも貪欲な愚かさに殴打されて人間たちは沈黙する。地球を保護するということ、それすらも人類の営みとして多くの人間を生かす。それが故に、地球の保護はその活動そのものに打撃を与えながら皮肉と矛盾を携えながら進む。資源の枯渇、数々の自然汚染、自然機能の悪循環化、超低気圧、それらは人間にとっての危機ではあるが、地球や自然にはそのような影響は何の意味も持たない。残酷なまでに自然に意志はない。我々はそれらにさえ包み込まれてしまうし、来るべき自然からの報復の日を覚悟しなければならない。自然へ恐怖して生きながら、死へと行進を続ける。その自然や地球にとって、我々の未来への危機など何の関わりがあろう?自然に甘んじていたくせ、地球の汚染に怯えるのは、我々の身勝手以外の何ものがある?我々は生きるために何かを犠牲にして失い、得て、それらへの恰好な贖罪という免罪符を精神の中で創り出し、ご都合良く考えるような凶暴なまでに貪欲な人類が嘆くのも、それすら我々がためなのである。いつの日か、神の御子である科学者たちが、自然以外から多くの人間が生存するための魔術を開発する日が来て、それらが営みを支える日には人間は自我を亡くし、人間であることを忘れてしまっているかもしれない。そこからまた新たな神話が始まり、繰り返してゆく。生は我々にとって高貴なることだということを忘れてはならない。自分の犯した災害や自然や地球のために死んではならない。今一度、知恵の実を食べて、最後の楽園を追われよう。地獄の中にも多くの認識の光が我々を照らす。その時に、また人間は自分たちが動物であったことを思い出し、天に向けて、運命に対して死ぬほどに笑うだろう。そこから理性は生まれ、人間自体の出来の悪さを軽蔑し、倦むことになるだろうが、それを高貴な印と捉えていくことで精神の貴族性が発現し、世界を構築していく。汝、敵を愛せよ。人を憎まず、精神衛生の悪さ、無能であることを憎むべし。聖書は忌まわしきおとぎ話である前に、伶俐な人間を無自覚に動物へと変える作用や鏡のような文体を持っている。あの教えは人を裁く。人を裁くということは自らたちが裁かれないための人間の貪欲さが隠れている。かの古代宗教に幻惑されてはならない。憎悪を煽るものに災いあれ!弱気ものを創り出す無能な世界を創り出すのはこの呪縛と人間を骨抜きにしてしまう宗教そのものの教祖や信者の愚かものたちである。自由を愛すことができるのは健康な印である。自分を縛るものを信仰するものは弱者の前に、精神の弱者である。彼らが語る心の貧しい罪人とは、他人を自己と同一化する頭の悪さが起因であるし、感情的にすぎる。是非とも他人を巻き込まずに勝手にやって下さればなぁ!あなた方の考えが、我々の自由精神にとって何の関わりがあろう!規律とは人に押し付けるものではなく、自分を律するためにある。自分の徳を押し付けぬこと、それが高貴なことなのである。