強すぎる愛とは残酷なものだ。何故かというとそれは多くの犠牲によって成り立っているのだから。その結果に伴い、その愛を持った者が、あらゆるものへの優越を知ると、眠っていた古い本能のひこばえが芽生えてくるだろう。虚栄心や力の感情は時に、精神の弱いものを豹変させる。そして、無力な者はそれらに飲み込まれ、それは肉体にまで達し、その誘惑はその者の魂を芯まで食らい尽くす。そして、鬱屈としていた感情が暴発し、理性を奪い、悲劇がまた一つ生まれるのだろう。「愛には特別な力があり、それは限りないものだろう。」それは愚かな答えで、無力な者の最後の逃げ道であり、逃げ道がなくなった者は嫌でも抵抗するしかない。その結果、その馬鹿げた答えが多くの愚かな恥知らずを生んできた。
なんて、可哀そうな人たち!この人たちが恨むべきはただ単純に、その子を産んだ親と知性の無さだろう。そして、我々は精神衛生や栄養の志向について幾分も気遣うべきであるし、わだかまりを流すための下水溝こそ必要なのだ。
昨今、もはや多くの人間がこの世界が一体、何で構成されているかを知らない人が少なくはない。(フランシス・ベーコンがこれを聞いたら大きな声で笑うだろうか?)
人の役割、立場、地位、それは人々が生きるための必要最低限の生活方法であり、それは社会の調和的な意味でしかない。問題視されていることですら、その調律の一部分でしかないのだ。当然の世界があり、それを可視化できるだけであって、それに触れて、動かすことは叶わない。しかし、我々は少しでも思い通りに行くと、それを確かに動かしたと誤解し、錯覚するのである。錯覚した当人には確かに動いたかのように見えたのであり、彼はそれで報われたと思ったのである。それが我々が行動する所以の原理であり、それのお陰で前進することができるのだ。こうして、また一人がその枠組の中に収束されていく。そして、前進するにはこの世界は広きにすぎるのだ。
ある者が漂流していた。しかし、彼は一人だけではなく、常に対話してくれる他の漂泊者がいたが、その漂泊者は頭巾で顔を覆っていたため、その漂泊者の正体が彼には解からなかった。漂流者は問いかけた。「お前は一体何者だ?私にいつも付きまとっては何か答えを返してくる。私はそれに返す上手い言葉が見つからないのだ。しかし、お前はなぜ雄弁に語ることができる?」漂泊者は答えた。「私はお前の中の記憶みたいなものだ。そして、どうやらお前の脳髄は、それ以上の認識を知ろうとするようには造られてはいないようだ。しかし、返すにしても語る当人は別にうまく返す言葉など求めてはいないさ。」「そういうものであろうか?」「そういうものさ。よく聴こえる音に対して、よく聴こえる、と返すような恥知らずはやらないだろう?しかし、返すのに頑張るとよく聴こえるものも聴こえなくなるのだ。その音が彼らの中にある想像と混ざり合い、音を掻き消してしまうのだから。」「私にはそれがよく分からない。」「無理に分かろうとする必要もない。それが、常に我々の軌跡であったのだ。未だ、その重々しく、陰鬱な歴史の中に生きていることを我々は自覚できない。しかし、それを認識できる進化した思念体が現れる時、また巨大な波が我々を彼方へと攫うのだろう。そうしてまた、それにぶつかりあったものの多くの破片が散らばり、それを掬いあげると初めて気が付くのだ。どうして私たちはこの中を歩んでしまったのだろうか?こんな結果を誰が予想できただろうか!と。それを自覚するには人の一生はあまりにも短すぎるのだ。」何か暗示的なことをその漂泊者は語り終わると沈黙し、しばらくは彼の問いに答えようとはしなかった・・。