我々は、自分を縛り付ける桎梏と対峙し、それへ死力を以て当り、自分自身の限界を見ることで、それとの執着をお終いにする。その後、暫しの間晩秋にも似た静寂と虚無が此方へと訪れる。 幾ばくの没落していった者たちの記念碑がそこには散りばめらているだろう。それらを見るものには小さくみすぼらしい小人の家々に見えるか、遠く彼方に光る将星に見えるか、稚拙な子供の遊戯に見えるか、意匠の芸術に見えるか、浅はかが故に横死した惨めな田夫野人に見える等、解釈は多様であるかもしれない。しかし、如何なるものや時であっても、あり触れた数々の生であり、驚嘆も哀れみも卑下を抱くことも無い。それらが数々の結末や運命であっても、後悔をする必要も無い。それが各々の生の完成であった。何れ成熟が訪れれば、その穂や実を刈り取らねばならないし、穂や実が実らぬのなら自らの手で蒔いたその種を摘まねばならない。しかし、必ずしも成熟が良いものになるとは限らない。それは遺恨との折り合いを付けるために生み出された禍々しい奇形であることも在り得る。 晩年の老人が狂ったように横暴になるのも青年期からの嫉妬心や怨恨や恐怖が遠い壮年から夢の世を介して襲いかかっているため、その感情に身を縛られてしまうためである。そのように精神を蝕む螺旋が絡まり、もはや二度と解けぬことになるのは何たる悲劇であろうか。
我々の世界を支配している精神と意志の絶え間ない闘争の系譜。その戦いは各々が先代の遺伝子を受け継いだ今も続いている。故に恐怖や引き絞られた緊張は幾千幾万の感覚を心身に植え付け、我々の感官や認識や先験を支配している。しかし、高貴なる精神はそれらに対して否と答え、その感情や遺志すらも自己の内から軽蔑し、否定するだろう。その閃光はあらゆる自己に宿る呪いの情動をも無下にし、繰り返すだけの円環に支配されたウロボロスの世界を、絶えず破壊するための戦いの方陣を描くだろう。
自己やその感情への信仰にくれぐれも気を付けるがよい。それが本当に身の程を知っているのか。何故そのようなものが在り得るべきなのか。疑うことを忘れるな。