ヤドリギ金子のブログ -834ページ目

偽高校生

なじみの鏡にささくれて
さんざん一括り
余剰から繰り出される行
不具王の、古びゆけ、はらわた
抽象のひりひりとじりじりと・・・・
あたかも無垢の防御壁よ
古びゆけ!

きさま、
燃焼し得るものは嘘をついている
俺の中の不燃物、燻ろう、燻ろう、だけ
そのだけを、懸命に
且々の息をついで、もう一息、
はぁ、はぁ、はぁ・・・
気管に滲みるように青白い月がつきまとう
「絶句せよ、絶句せよ」と靄の立ちこめた夜に、また鳴く不眠の青蛙、
彼の召還は括れたか細い手足が、食い散らされた肉片か、あるいは、裂かれた声のようになり、舗装路にすり込まれて、はじめて始まるように思われる。
一瞬、一瞬はすかいの接触。


白日、もう跡形もなく、
踏み越えられないものを踏み越えてしまう、
ぺたんぺたん
俺の眼にいつまでも残饗する音、
この音は、月のように遠くて近いあのどんな音と拮抗する?


不如帰も鳴いていた。愛しい痴呆のまま、眠いから授業をサボる。真昼に眠い俺と雨蛙の労働。本屋で、立場のような血反吐が、清潔なネオンのように整理された本だけを並べ換え、一息を計測して立場を変える。
生臭くあるのかないのか、一息を計測せよ。


隊列から身をそむけ、違和から無縁を生き延びるため、応答を切実に呼び込む扇動の結晶に見立て、解体屋の肉のように、眼の横につり下げます。やわらかい余分である耳朶への接近です。欠如の過剰が重力の契機となるムカツクアレキシシミアルサンチマンオプション。
金属が揺れるたび、誰のものでもないアタシが回帰する。


机上には砕かれた首などはなく、皺くちゃの紙片が散乱する。すぐに飛躍を羅列しようとする危うさがあるなら、四つんばいで目線を低くしろ!
「ここにも断層があるなんて思いもしませんでした」
「調子はいかが?」
「先生なかなか止まりません、調子狂いです」
「今回は損耗でしょうね」
「先生、こんな風でしかないので、わさわさ大股開きをします
 電球を視線で破砕しようと力みます」
足下の雪が言問う半端な闇を眺めるなら
迂闊にでも迂回がほしいと吃音に吃音を重ね
承認を超えていく〈硬雪のようなこちこちの身体〉を
敗残兵が暴れる背景へと向けろ!


交差路の一角にパノプティコン!
斜めに落下しようとすれば、
そう、チャンスだ
逃亡奴隷へ
クリナメン!



「どうです、堕天使さん、君も破滅してしまったわけでしょ。おや、こわくないの?それじゃ、さようなら、ひとりで帰れるわね。」
結果主義!  
出口はこちら、入り口もこちら

優しい猫背の老教師に「敵をまちがえるな」と言われても、敵はいない。
ドアはすべて空いている。そこもここも狙い撃ちだ。
(システムは無敵)


炎を瞳に映した真夜中に
焼け焦げてまだ暖かい廃屋から
さかしまの身軽な鬼が
「おかえりはこちら」と言いつつ
ほくそ笑みながらひき留める
俺を火祭りにせよ


(試験)
死んだ細胞で防壁をつくる腔腸動物のように
選び、
照りつける太陽の下での終わらない土掘りのように
戯け、
時を軋らせるまで
嘲り、
指先を忙しくし、砂に骨を埋めるように、紙に打ちつけ、
それからゆっくり髪を掻きあげる

カチャカチャカチャとサイトに打電、
カチャカチャカチャと真夜中の世界の片隅へ
泥水路の影に、まだ盲目の、全身を震わせる、投げ捨てられた犬、そのか細い声へ
脱け殻は容易にひとり歩きする、散乱の代名詞。留保なしに細胞を軋ませるオレの星の言葉。
誰かが囁いている、
「真夜中の蝉のように、発火点を探索せよ!」
        

死人って何みたいかな?
行方不明者ですよ
冗談で冷ややかに笑える顔は匿名の墓ですから
・・・・・・・・別便、出します

美術室のアイツは、城のために切り倒された桜の樹液の滴りを、しょう果線に蘇らせながら、サンチマンやルサンチマンをもてあそんで、中途で筆を放り投げ、モスグリーンのつまった未使用の男根をひねりつぶした。しかし、学校からここまで続いたゲル状色彩の酔いは覚めない。全身に叫喚をまどろませたアイツは、オレに後ろから抱きつかれたまま、半眼でうつろに、岡の骸を見た。
光の霧、
霧の光。

ひんやりした地下壕で、地面に膝を抱えた君の桜色の肩、そこだけが明るかった。君のつんととんがった唇の上に幻となって浮遊する不定形の僕の夢。


ぬるい湯にふやけた亀頭が
生まれたての赤子のような唇で
にやけている
犬のように家政を保持し
アイツの芳香を
がむしゃらのようにしてナメルのだろう
囁きが叫びになり
アイツがもろく崩れるまで



老教師の尋問はかなしい貨幣のよう。
芒がいっせいに金色に波打った夕暮の土手をさまよい、後戻りできず盛ってしまい、轢かれたうえにさらに轢かれ、首 足がぐらぐらしていた昨日の路上の猫のように、熱風を瞳の裏に凍りつかせて、軌道をコントロールできない。
「先生、こんな風に調子狂いです」
「だから、先生、後戻りせずに逆毛立ち、突っ立ちます」
だから、私は疾患の僧侶のように深い穴の中へと眠りたい。


海の底からのように何度でも「おやすみなさい」を言え。

もうじき未決のままの偶発事故。        
廃滅してやっとわかると嘯き、ぐらぐらの首を抱きしめ、一瞬に一切を遮断した金属音ばかりを、もう一度瞳の奥深く埋めた。嘲笑い不法侵入した星によって、薄闇にうっすら浮かぶ、投げだされた猫。あんぐりあけた口から、二本の犬歯。地上でかちあわない牙。猶予は許されているのだろうか? 




もう 錆びかけて切りがない地中の不発弾だ。
深夜の徘徊も、原色のボックスで行き詰まるから、針金のような手のなかのじとじとのマイクに助けられて、緩い涙腺を唆せ。


暗い円卓に
べたり
片足のウルトラマンとともに
反り返り
掻き毟るなら
黄金虫よ 
この食卓だ
上擦りつつ行け


ようやく眠りについた頃、早朝に親父が蒔く農薬、あるいは、放課後にむさぼるジャンクフードのように、肉に馴染んだ貧しい血よ、楽しく曖昧に耽溺して能書きをたらたらと、たまには横ざまへも、反動から反動へと、次々と反転せよ。反転せよ、反転せよ!

        


岩山の草叢を通った生暖かい血の匂いを、まだ覚えているか? 
そうだ、はじめてこの町で、真上からすうっと青白いすじを描いて降臨し、
目の前を旋回ししつつ漂い、一瞬のうちに去った一匹の蛍に出会ったのは、
石塊になったNが練習の崖から移送された嗚咽の晩だった。
これもうまい話といえば話か?
「的屋の屋台の上でより分けられ、あげくのはて売れ残ったひよこのように、右往左往歩いている僕」と、Nは、確か言ったのだ。
遠い西国からこの町白石にやってきたNの土産よ、オレにかわってチベットの鈴よ、
あの時カラカラと岩々に反響していった落石になりかわり、ポケットからころげて、
鳴れ、鳴れ、鳴れ、キスを氾濫させて頼りない保証を得るように。

       
空を切っていく不在証明。
耳削ぎ、舌切り、
オレンジを4つに切る。
届け主もわからないままそれぞれに切り込みを丁寧に入れる。
だから、これで、寂しい、とは言うな! 
別れの際まで立てないまま金縛りにされた告白癖の獣よ。
            (あらゆる戦争は内戦である)

今年も、年が明けて・・・

  哀しみを受け入れること、哀しみを受け入れる場があること、余白はこの日本にどのくらいあるのか?

 監視社会?派遣という人身売買?若者たちにあまりに冷たすぎる社会。さらに高齢者を死へと廃棄する社会。暴動も起きない日本社会って何?すばらしい?ペシミスティックにはなるまい。なぜなら、たとえ少数でも、何とかしようと必死でこの歪んだ社会を打撃し続けている人びとがいるかぎり。

  哀しみを共有することはとても難しい。しかし、哀しみに寄り添うことは可能かもしれない。

 極楽トンボの毎日がこのまま続くなら、もし続いてくれるのなら、いつの日にか、「寄り添う」チャンスを呼び込まなければなるまい。なぜなら、今の私が寄り添われて、中途半端な哀しみに右往左往しながらも、極楽トンボで有り続けられているからだ。

 

 

詩から死へ、その次へ

悲歌を歌うことに気後れしてはいけない

エレジーの星、星の国の悲歌を君はノートに記して、

それが美しいと思い切るまでの

永遠を幾度となく捕捉する

書くことと消すこととの間に君の月日の息吹があるから

汚い言葉もきれいな言葉も君の意志がうなづいた永遠なんだ

それらをエレジーと呼んでぼくらの雨のなかの木のように

それぞれの部屋に

空に

突っ立っている

窮屈な世界などないよ

とぼくらの高原に初夏の雷鳴が轟くと

君はノートに新しい悲歌を記す

教えてあげる

僕はきょう、雑踏の街で小さな兵隊を見つけた

彼は優しい銀の眼をしていた

教えてあげる

水の深みを流れていった僕の心は

いまもセルロイドの板につかまって

仕方ないという顔をしている


 映画『ユリイカ』に関連づけつつ,「死」について書こう。「また,映画なの」なんて言わずに,ちょっとばかしつきあってほしい。  主人公たちは,映画の前半で,死が重たく根付いたこの世界から逃避する。逃げることは決して悪いこととは私は思わない。忘れようと思って忘れられないいやなことを,緊急非難のようにほんのひとときでも忘れたかのような錯覚に陥らせるには,日常から逃げることも必要になるのではないか?しかし,逃げ切ることはかなりむずかしく,精神的外傷が強ければ強いほど,それは不可能になる。この映画ではそうした弱い人間の姿を静かに肯定し,神のようにあたたかく見守っている。ところで,トラウマを抱えた主人公たちは逃げていてもいっこうに埒があかないということに,やがて気づく。すぐに立ち向かうような強い意志を示すというわけでもなく,探していてもなかなか見つからずあきらめかけていた時に偶然なくしたモノを見つけたように,トラウマにきちんと対峙しなければ次の「生」がやって来ないということにごく自然に気づくのである。つまり,役所が演じる元運転手は,あの事件以来決して運転することのなかったバス(もちろん,これは事件の時に乗っていたバスということではなく,事件以来見るのさえ避けていた乗り物の種類としての「バス」,劇中では「別なバス」と言っている。)を買い,そのバスに兄・妹,そして結局は3人の抱える「死」に近づけない若者(兄妹の従兄にあたる学生であるこの男性を映画では頭だけの解説者としてうまく使っているが)を乗せるのである。このバスで新たな旅に出ようというのである。これはもう逃避ではない。なぜなら,4人を乗せたバスは,原点にかえるように殺人現場にまず行き,全員バスから降り,元運転手がこう言うからだ「ここがおれ達の出発点だ,よーく見とけよ。」と。元運転手と少年と少女を結びつける唯一のこと,それは完全なマイナスの価値であり,独房を叩くコツコツという音のような希望であると同時に絶望のトラウマであるが,これを共同で見つめ続けようと意志した瞬間から「再生」がはじまるのである。3人は苦しみつつ「死」というものに「共同」で対峙していく。死について考えることは決して暗いことではない。なぜなら,「死」を見つめることは,結局の所「生」のかけがえのなさを感じることにつながるからだ。   ストーリーをフィルモグラフィーに従って簡潔に説明すると,「バスジャックの無差別殺人の被害者となって,たまたま生き残った一人のバス運転手と一人の少年と一人の少女(二人は兄妹である)が,眼の前で人が殺され・自分も殺されかかるというトラウマを抱えたまま,小さな共同体を形成することで,再生へと向かおうとする」ドラマである。「メメントモリ(死を想え)」という,ペストが流行した当時の西洋中世の格言があるが,この映画は,一人ではトラウマとしての「死」に向かうことができなかった主人公たちが,共同で生きることを通して,やがて「メメントモリ」を貫き,新しい生をかすかに見いだす(?この辺は観客に預けられているが)物語である,とまとめたい。映画に繰り返しでてくるあるエピソードに,勝手に「われ発見せり(〓「ユリイカ」この言葉はポール・ヴァレリーの著書として有名。ジム・オルークのアルバム名でもある)」として,妄想をたくましくした。そのエピソードとは,バスジャック殺人事件後に次々と起こる連続通り魔殺人事件の容疑者として一夜だけ独房に入れられた主人公の元運転手(役所広司)が,隣の房へ答えて行なう壁をコツコツと叩く行為である。彼は,この行為をこの後,二度三度行なう。 この行為からの妄想というか,連想はシモーヌ・ヴェイユの以下の言葉である。「隣り合わせの独房に入れられ,壁をこつこつとたたいて通信し合う囚人ふたり。壁は,ふたりを別けへだてているものであるが,また,ふたりに通信を可能にさせるものである。」  運転手は,まるで無意味というしかない殺人に遭遇し,人間不信・世界不信に陥っている。徹底的に孤独なのである。そんな彼がほんの一瞬孤独感から救われるその最初の徴候が,この行為だったのでは?と妄想した。(決して強さを感じさせない,どちらかというと寡黙で弱々しくさえある)彼は,二人の兄妹のために自分を無にしようと試みはじめる。同じ時間と空間を経験したという共通項が,この三人を結びつけているのだろうけれど,それは何か積極的な意味での「協力」とは異なる。同じかもしれない弱さ・同じかもしれない「死」を,持たされてしまって追い詰められた者たちが,まるで運命のように集まるのである。以心伝心という言葉があるが,この映画で,主人公たちにかぎって余計な説明的セリフは一切使われない。三人ともあまり多くをしゃべらない。監督は以心伝心が本当に確実にあるかのように,多くを映像で語らせる。例えば,少女が哀しみと苦しみのあまり泣く役所の頭を撫でるシーンは,かぎりなく美しい。[少女役の宮崎あおいは,この年令にして「顔と肉体」で演技している,なんともすごい「役者」だ。ちなみに,『害虫』という彼女が主演の傑作(と若い友人は言っていた。)がある。]画面の色がすばらしい,とだけ最後に言って,まだまだ書きたいことはあるが,きりがなくなりそうだし,万が一観るかもしれない君たちの想像力を邪魔しないように,唐突だが。