自虐日記51 | ヤドリギ金子のブログ

自虐日記51

  1ヶ月くらいぶりに、自宅から車で30分の青根温泉に行った。妻はここのお湯が大好きだ。「柔らかくて、とても合う」と言う。途中コンビニで昼食のカレーパンと、秋だから・・・と二人で肉饅を買い、車の中で食べる。青根の大衆浴場「じゃっぽの湯」は、お昼時になると空いてくるので、行く時はそれに合わせるようにランチにしている。今回もそうである。

 12時を過ぎたばかりなので、予想通りお風呂は空き始めていた。入場した直後は三人しか入っていなかったので、のんびりできると思い安心した。お客さんはいつものようにお年寄りばかり。というか、最近はどこに行っても爺さん婆さんばかりだけど・・・、私もそろそろその中の一人に入るのだろうと思いつつ、すでに湯に浸かっていた三人の老人の肉体を眺めるでもなく眺める。いや、自ずと視界に入ってくる。

 いままでなら、彼らの老化した肉体に、どちらかというと醜さばかり感じることが多かった。しかし、今回はそうではなかった。しみじみとした哀感すら感じた。肉体に染み込んだ彼らの時間を強く感じた。使い古された鞄や帽子に感じるような、親しみを覚えた。衰えた肉体との距離が近くなったような気がした。これは、何もいまさら言うまでもないことなのかもしれない。なぜなら、私も彼らと大して変わらない年齢を迎えつつあるからだ。肉体的な衰弱が少しずつ明確になりつつあり、鏡に向かうたびに、奥底から浮上した「灰汁」のようなものを感じてしまって、その醜悪さにうんざりしてしまうことも多くなってきている。(それゆえか、最近は以前にもまして写真に収まることが嫌いになりつつある)

そうした、老いた肉体に対する思いは、これまでなら自分のそれに対するように、他者に対しても同様だった。ところが、それが今回は違っていた。肌のたるみ、突き出た腹、筋肉がおちてしまって現れた手足の皺、猫背気味の姿勢・スローな体の運び、そうした老人の立ち姿や座り姿に、今回はなぜか不思議な感情=共感が湧いた。時間の蓄積を彼らの肉体に認め、枯れていくことを緩慢に受け入れて行こうとしている老人たちに〈美しさ〉すら感じた。そうして、最近読んだ、以下のようなエピソードを思い出した。このエピソードに従うなら、老人となりつつある私は「もみじ葉」なのであり(でなければならないのであり)、「草葉の露」なのであり(でなければならないのであり)、「うら」も「おもて」も赤裸々に、いっさいの虚飾を削ぎ落としてさらしたまま「散るもみじ」でなければならないのだ。

良寛は人を訪ねて杖を忘れたことに気がつき、

「老いが身の あはれを誰に語らまし 杖をわすれて 帰る夕暮」と嘆いた。

そしてついに老衰のためひとの家にひきとられ

「形見とて なにか残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」

そして、

「むさし野の 草葉の露の ながらへて ながらへはつる 身にしあらねば」と詠じ、ひそかに終焉の近いのを告げ、看病していた尼が嗚咽した時、静かにさとすように、

「うらをみせ おもてを見せて 散るもみじ」

という辞世の句(これは彼本人の作ではないのだが・・・)を尼に与えた。

霜山徳爾氏によれば「老化は色彩で失ったものを清澄さでとりもどすことである」つまりは、禅門で言う「無一物」である。こうした境位にいたることは、だらしない私にはほとんど不可能に近い。しかし、せめて頭の隅くらいには忘れないようにいつも置いておこうと思う。