石川善助『亜寒帯』と戯れる28
白鳥処女
偏円の空の凹みに落下する
白い落体、羽搏く白鳥、
帰翼する、北へ、
……ああ氷河のなかの冬宮(クレムリン)。
雲間に燐と灯り、縮まりゆき、
雪片となり、微粉末に散る銀。
(己れ切なく光幻を追ふ)
処女ガ白鳥二化身シテ
天ノ鳥笛ヲ吹キナガラ
幽カナ藍二消エ入ル。
(遠い始原代の民の伝承)
鉄と肉体を労作する漁区に立ち、
曙の神話をもつ胸と血は悲しい。
蝦夷松の芽が励しく空に荊棘ふ
ギリヤークの天末、動かぬ天体、
何もない、感官の彼方、
……かの白夜の微明(スルメキ)。
「北太平洋詩篇」の最後の詩篇までようやく辿り着いたのだが、この詩篇、なかなかやっかいだ。「白鳥」からすぐに吉田一穂の詩篇「白鳥」十五章を連想してしまうが、善助のこの詩篇は何か連関するものがあるのだろうか?
吉田一穂の有名な詩篇「白鳥」十五章が構想されたのは昭和十五年(「やっと詩がわかったら、詩をかけなくなってしまった。しかし今大それた詩を構想している」)、発表は昭和二十一年十月である。一方、善助のこの詩篇は、善助の死後、一穂が創刊した詩誌『新詩論』(昭和七年十月)に掲載されている。単純に考えるならば、その内容はともかく、善助の作が先であるので、善助が一穂から直接的に影響を受けたとは言えないだろう。
もちろん、だからと言って善助が一穂の描いた「海」や「白鳥」のイメージや様々な独特の詩語に影響を受けなかったとは言えまい。しかし、ここまで、彼の詩と戯れてきて私なりに思うのは、善助の方が、言わば〈甘い〉ロマンティシズムとは離脱した所、もっと重く暗い、低い視線で(あえて言ってしまうなら、貧窮に喘ぎ、中央権力から押しつぶされかかった東北人としての視線で)とらえた風景=北太平洋の中にいるような気がしてならない。
一連目の冬宮=クレムリンとは、ロシア語で「砦」という意味。ロシアの多くの都市にクレムリンが建てられているが、ここで言うクレムリンとは最終連の「微明」のルビ「スメルキ」をロシアにある都市とみなすなら、そこに存在する巨大な城壁ということになるが、詩のなかでは「氷河のなか」と言っているので、「白鳥」が「帰翼する」先に見える幻影のことなのだろうか?「白鳥」は「偏円の空の凹み」のような「冬宮」に「落下する」「白い落体」なのである。零下の荒涼として壮大な氷に閉ざされた風景の渦中に微塵の「白鳥」が置かれている。
「白鳥」は美しく輝き=「燐と灯り」、かすかな白い飛影を「銀」の「微粉末」のように輝かせ、壮大な風景の中に「雪片」のように舞い散っていく。何と寒々として透明な風景なのだろうか。この詩篇の表題を「白鳥」ではなく「白鳥処女」とした理由も、何となくではあるが、その幽けき純粋性を強調したかったように感じ、「処女」としてしまったことが、わかるような気がする。
そのことは三連目において明確になっている。詩人は「処女ガ白鳥二化身シテ」と明確に幻影を見ていることを示し、続く「天ノ鳥笛ヲ吹キナガラ/幽カナ藍二消エ入ル。」が声をともなって風景に溶け込んでいく一筋の光のように美しい!それはまるで(遠い始原代の民の伝承)のようと、詩人はわざわざ補足もしている。この第三連は特に吉田一穂の詩をも彷彿とさせる、言わば〈神話的、ロマン的〉表現である。
しかし、善助の独自性、つまりは吉田一穂とことなる点は、次の第四連で明確になる。彼は「神話」をただの美しい神話としては終わらせない。風景の中に「鉄と肉体を労作する漁区」を置くのであり、「神話」を想像しながら、そこに漁民の「悲し」みを見るのである。
最終連は、海から一転して陸の荒涼とした白夜へと移って、滅びかけたギリヤークの人々の見たであろう風景で閉じている。