自虐日記26 | ヤドリギ金子のブログ

自虐日記26

 パンツの紐よりゆるゆるの涙腺、あるいはそれは感情失禁? あるいは老化、もしかしたら認知症etcについて。

涙がいっこうに乾かない。乾く様子がない。だらだら垂れ流しているのに、次から次に溢れ出る。ダダ漏れ、というやつだ。一日に少なくとも三回はやってくる。(まず朝ドラを見て泣く。これが一日の通過儀礼になりつつある。)

子どもが一心不乱に何かしている健気な様子を見ただけで水のようなものが溢れる。老人が何か切々と呟いているような映像を見ただけで溢れる。若者が他者にひたむきに寄り添う姿を見ただけで溢れる。読むことによって涙腺がゆるむことは少ない。圧倒的に映像か小さな具体的風景によるものだ。妻が「またなの?」という微笑みで、私を見ている。

 昨日は久しぶりに『東京物語』を見た。何でもないはずの、何気ない年寄り夫婦(笠智衆と東山千栄子)の会話に、戦争未亡人になってしまった義理の娘(原節子)の瞳に、私は涙を流し続けた。何でもなくはなかった。止めようとこらえればこらえるほど溢れてきた。バカである、大馬鹿である。生の儚さへの感情移入なのか? 生きることに哀しみをみてしまうのだろうか? それならそれはいったいどんな哀しみなのか? 薄っぺらい哀しみ。いや、まるで不似合いな、暇人の、暇であるがゆえの、贅沢であるがゆえに醜いナルシズムか?

(かつて学生の頃、〈今日はおもいっきり泣いて、涙と共に不純物を洗い流したい〉と、失恋した訳でもないのに思って、フランス映画や小津・成瀬作品、あるいは山田洋次作品を観ることがたまにあった。メロドラマ、メロメロドラマ。完全に日常を遮断したくなって、たまには映画館の闇にどっぷり浸ることもあったが、レンタルビデオが普及する頃だったので、当然ながらひとりで部屋にこもり、カーテンを閉めてこっそり観た。その時は、社会から完全分離した気もして、誰にも気兼ねすることなく、泣くことができた。)

 冒頭シーンに、小津の親友・(戦争で殺された)山中貞雄を象徴させているという、主人公である尾道の年寄り夫婦の家に咲く、鶏頭花が映った。当然のように、それが画面にさりげなくちらっと映った瞬間に感情失禁。涙がとめどもなく溢れ出した。処置なし、だ。まるで何の関係もないことであるはずのことに、戦争を経験しているはずも、当然ながら、ないのに・・・。傲慢不遜の涙と言ってしまうか? 回り回って自分の感情に溺れた結果の無責任なナルシズムとしての涙なのか? 呑気すぎることには変わりはないのだが・・・。

 生活に追われているから泣く余裕はない、泣くことを忘れかけている、涙さえ乾いてしまった。そんなことは、あまりにもユルーイ時間に身を委ねられている私にはありえないことだ。カッコつけて言うなら、本居宣長の「もののあわれ」を感じる心というヤツだ。いやいやそんな高尚な心とは違うだろう。要するに、年々感情が単にだらしなくなっている。しかも、それで許される環境に幸運にもあって、老化しつつある我が身を慰めるように、のうのうと過ごしているだけだ。