石川善助『亜寒帯』と戯れる15 | ヤドリギ金子のブログ

石川善助『亜寒帯』と戯れる15

    

 

氷塊(ざえ)の水晶に尾鰭を磨き、

自己の肉や脂肪に燃えながら、

北より来る方錐型の群々が、

嚢網で水の最後を噛み合ふとき、

ウインチは最初の歯車(ギア)を噛み合はす。

鱈、何がオコック海から呼んだのか、

おまへらとともに死にゆくあまたの孵子(はららご)。

朝焼けの景象を収めて死ぬ二つの目。

 

 先の詩篇「鰊」同様に、いや、「鰊」以上に、鱈の生と死を直視しようとしている詩篇のように、私には感じる。鱈を見つめているのは詩人であり、同時に漁師である。冷たいキラキラと「氷塊(の水晶」に鱗を輝かせ(「尾鰭を磨き」)、生の限りを尽くすように、冷たい「北」の「オコック海」を、「方錐型」の群れをなしてただただ一心に、まるで何かに憑かれたように泳いでくる(魚類=鱈の場合、泳ぐと言っていいのだろうか?)「鱈」が、人間たちの生の営みとしての漁によって、「嚢網で」(=袋状の網で)、冷酷にも文字通り一網打尽に捕獲され、「ウインチ」によって、漁船に引き上げられてしまう。「朝焼け」とあるから、時は空が真紅に染まる早朝だ。

 その瞬間に、「おまへら」=鱈たちは、鱈たちの「孵子」=彼らが宿した無数の子どもたちの生命とともに「死にゆく」。人間によって無惨にも引き上げられていく時、彼らの目には、「朝焼けの」真っ赤な「景象」が映っている。

 何と言っても最終行が強烈だ。鱈の朝焼けを映している無垢な眼光!