自虐日記18 | ヤドリギ金子のブログ

自虐日記18

   相変わらず、無為に過ごしている。考えてどうなることでもないのに、ただ考えている。いや、考えようとしている、読み散らしつつ。単に読むしかなく、つまみ食いするように、左右前方に並べられ積まれた書籍を手に取る。加えて、昨日蔵王町立図書館から借りてきた本。例えば、教え子に勧められ借りてきたアナキストの森○○氏の最近出た本。期待したが、さっぱり入り込めなかった、ノレなかった。内容もさることながら、彼の文体が私にはダメダメだ。エッジを効かせるように本人は試みているのだろうが、彼の言葉が軽く感じられ、さっぱりジジイの脳には響いてこない。同じアナキズム本でも、デビット・グレーバーの初期の翻訳本の方がエッジが効いているように思える。そう感じるのはなぜだろうか? 栗原○の本もそうなのだが、威勢は良いのだが〈軽く〉感じてしまうのはなぜだろうか? 私の期待過剰なのか?

 読み散らしてその後、なのであるが、これまでならどんな形であれ、間接的にも直接的にも授業の「教材」として活用することが多かった。そのことによって、読む理由がそれなりに明確になり、読むことの言い訳も立った。しかし、ほぼ完全に近くリタイアした現在の読書は、ほぼ目的論的読書である。つまりは、ただただ読むことの快楽に浸るための読書である。ぎらぎらのビフテキを食うなら、そこには食べるという快楽とともに、結果としてたんぱく質などの栄養を摂取することになる。もちろん、その他は、糞になって排出されるのであるが。しかし、毎日が日曜日化しつつある、私の読書とはいったい何なのだろうか? 私自身が読書によって変容するなら、その変容が社会の変容へとつながっていく・つなげていくことが可能なのだろう。私が意識しなくとも、読後の私は読前の何らかの変化はしている。その私が他者と交わるのだから、その変化が他者の変化をかすかにでも誘うこともなくはないのだろう。これはかなり楽観的な希望的観測、何もしないことの言い訳である。要するに、私は読んでも何もしない。感動した、共感したetc・・それで終わりだ。アクションへは程遠い。それゆえ、それで良い、それくらいが丁度良い、考えても仕方ない、考えるだけまだマシだと、自己肯定して仕舞えば良いのに、くだらない、思うだけなら無意味でしかない〈倫理観〉に苛まれ、夕刻が迫る頃、よく読んだ・楽しんだという充実感ではなく、いったい今日の読書は何の役に立つというのだという功利主義的な徒労感に苛まれる。馬鹿げている。実にバカだ。

 そこで、せめてもの気休めとして思いついたことが一つある。それは、今まで以上に、ほぼ機械的に、ノートに筆写することだ。これまでも、時々は読書ノートなるものを作り、書き留めることはしてきたが、今後はこのマックに手当たり次第に書き写すことにする。完全な自己満だが、記録に残すことで、思考の反復による熟成が可能になり、手遅れだろうが、少しはマシな人格を陶冶できるかもしれないと思うのである。