ブランクーシ展 | ヤドリギ金子のブログ

ブランクーシ展

 二十代後半に中原佑介さんの評論で知り、一時期夢中になったブランクーシをようやく体験することができた。

 デュシャンが原理的・根源的であったのと同様に、彼の作品もそうであることを確認できた。新鮮な発見というより、以前から写真・図録で感じていたことの確認だった。いや、当然なのだが、作品の一つ一つを上から下から正面から横から、接近したり離れたりして、〈触覚的に〉観ることで、圧倒的な存在感に撃たれた。

 行きつ戻りつしながら体感・観ていて、彼の作品は年齢とともに変化して行くことはないように私には思えた。ある中心へ向かって堂々巡り・試行錯誤の反復を行っているように感じた。これまで作品集(書籍)を「読んで」知った、彼のプラトン主義=イデア志向が少しだけわかった気がした。例えば、多作で次から次へ作品のスタイル更新を持続していたピカソとは対照的な、それでいて方法の人でもあると思った。そうした意味では、彼はピカソとは異なる意味で、徹底的に西洋の人間である。作品を一見するとプリミィティブのようであるが、そうではない。

 感動したのは、台座のない頭部だけの2点と、彼の作品ではおそらく最も知られた「空間の鳥=飛翔」、そして彼が自作を撮った写真だ。(さらに、初期の「ブライド」と比較するように設置されていたロダンの「カミーユ・クローデルの頭部像」、そして片隅にあった、デュシャンが自作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を含めたモノを悪戯のようにコラージュした小さな作品だった。)

  とりわけ、「飛翔」以上に、2点に関しては設置された場の空間に心地よい緊張を生み出しているように感じ、光を反射し、影を作り、釘付けされた。彼が写真を撮る理由、作品を手元に置いて絶えず〈反復〉作業=手仕事を欠かさなかって理由が少しだけわかったような気もした。それにしても、(当時の流行りのようにアフリカや東洋に刺激を受けたことがあったにせよ)彼は良くも悪しくも徹底的に西洋の人だと思った。