石川善助『亜寒帯』と戯れる11
海景と徒日
漂流物の吹きよせられて水に書く篆字、
空しく波を啄き波へ飛び去る一羽の鴎。
舷の日向(ひなか)で俺は管(パイプ)の錆をとる。
鉄刷毛の剥ぐ赤い粉の飛散
静かに光をよぎる落下を睹つめる。
鉄の軋りに震ひかちあふ歯牙の琺瑯、
俺は酢えて海へ唾液する。
舷側を折れ水にのびるものの影、
港はブルキンエのなかに暮れる。
零(ゼロ) 零(ゼロ) 俺は一日を海に失ふ。
光を追ひ波の白に喁(あぎと)ふ渦まく魚紋、
人影はこぶ豆糟板の円穴(まるいた)透かす空の亜鉛。
「「徒」は、従う仲間の意味だが、「何も持たない」の意味もある。徒手としゅ(手ぶら)、徒労とろう(むだ骨)、徒食としょく(働かずに暮らす)などの表現としても使われる。」
一連目。漂流物とは朽木のようなものだろう。(現代ならばプラスチック等を想像してしまうが・・・)そうした小さな漂流物が、まるで篆字(→公式書体としての歴史は極めて短かったが、現在でも印章などに用いられることが多く、「古代文字」に分類される書体の中では最も息が長い。)のような軌跡を水面に描き、そうした海面上を、波も立つ海面上を、魚を求めるように一羽の鴎が
飛んでいる。
表題から連想されるのは、詩人が海岸で労働しつつ過ごし、その合間に眺め・思った風景・心象なのだろうということ。ただ、この心象風景は、単なるロマンティシズムではない。ここには過酷であろう「労働現場」が介在しているからだ。二連目前半などは特にそのことを明確に表象している。太陽光が降り注ぐ甲板で彼は漁の道具である「管の錆をと」る。その作業は「鉄刷毛」で錆などを「剥ぐ」ことであり、「赤い粉」が「飛散」するような労働である。労働者である詩人は作業をしながら、自分が「剥」いだ=落とした錆が陽に反射して「静かに光をよぎる落下」するのを「睹つめる。」
「鉄の軋」る音に、「歯牙の琺瑯」=歯が「震ひかちあ」ってしまい、詩人は「酢えて海へ唾液する。」のである。
「舷側を折れ水にのびるものの影」とは、ふなべりから海面へと指しているマストの影であろうか?そうした影を作るようにして「港は」「ブルキンエのなかに」=赤い夕暮れのなかに、港は「暮れる。」のである。労働に疲れ果てて、身も心も使い果たし虚脱している状態のことであろうか、詩人は自己の心境を「零(ゼロ) 零(ゼロ) 」として呟かせ、「俺は一日を海に失ふ。」と結語する。そうした労働の果ての自己とそれを包む港湾風景のなかにあって、詩人は「光を追ひ」、水面で魚が口をパクパクさせ、その口元から小さく渦巻く「魚紋」=「波の白に喁(あぎと)ふ渦まく魚紋」を見つめ、
「人影はこぶ」=人が運んでいる「豆糟板の円穴(まるいた)透か」している「亜鉛」色の「空」を見つめている。(最後の行はイマイチよくわからない、イメージできない。とりわけ、「豆糟板」が具体的にわからない。)