石川善助『亜寒帯』と戯れる3 | ヤドリギ金子のブログ

石川善助『亜寒帯』と戯れる3

       候鳥通過

 

夕暮の黄に明滅し、

おびただしい候鳥のむれむれが、

かをかを啼いて島を過(よぎ)り、

微塵のやうに地平線(おき)へ堕ちる。

 

季節の流すあれら散点、

永劫の空に現はれ消える

時間のなかの悲しい擦過。

 

意志は梵(ブラフマン)に向かって飛ぶ、

あけくれ啼いて鳥と飛ぶ、

疲れた肋體(にく)の内面に

黒い点描をのこしてゆく。

 

「むれむれ」と「かをかを」が呼応している、意味と同時に音としても。「夕暮の黄」が「明滅」しているから、その「明滅」の中にあるがゆえに、さらにはその中をわたる数々の鳥が単なる群れなのではなく「むれむれ」なのであり、その鳥たちがほぼいっせいのように「啼いて」行くから「かをかを」なのである。巧みな修辞だ。「啼」くによってそこに哀しみが含まれているようにも伝わってくるが・・・。その哀しみを増幅させるのは最終行だ。すなわち、「微塵のやうに」という直喩が、「地平線(おき)へ堕ちる」に重なり、イメージを鮮明にし、しかも、「地平線」に(おき)とルビをふることで、岸辺から遠く一直線に広大な水平線を的確に前景化する。近景から遠景へと水平方向に果てしなく広がって行く。

 二連目は一連目の、言わば情景描写を受けての抽象・心理である。「散点」とは広大な空間に消えかかりそうにも?散らばる「候鳥」に他ならない。それは散り散りに飛ぶ、まさに「散点」なのであり、それゆえ「永劫の空に現はれ消える」「時間のなかの悲しい擦過。」極小が極大へと弱々しそうに、そして同時にまつしぐらの「擦過」。極大の中に極小を提示することで哀しみが際立つ。

   ところで、肋骨ではなく「肋體」=「にく」であるのはどうしてだろうか?漁師の過酷な労働を、言わば触覚的に示唆しようとしたのだろうか? 労働によって自然に抗う人間の哀しみを増幅させようとしているのだろうか?

 一連の風景、二連の風景を見つめる詩人=漁民の心象が、三連目において結語として荘厳にまとめられる。詩人の意志は、壮大な風景とその中に小さく置かれた人の哀しみを見つめることで、「梵(ブラフマン)」=さらに広大な宇宙=形而上的世界へと、鳥たちと共に、鳥たちのように飛翔しようとする。その精神の軌跡は、「疲れた肋體」に、まるで「候鳥のむれむれ」のように、儚くも「黒い点描をのこしてゆく」のである。不可避の運命のように。