石川善助『亜寒帯』と戯れる1 | ヤドリギ金子のブログ

石川善助『亜寒帯』と戯れる1

 今から、石川善助の詩との戯れを、尾形亀之助に続いて行いたいと思う。彼・善助との戯れを試みようなどとは当初思ってもみなかったし、こうして決意しても果たしてどうなることやら・・・と、亀殿以上に不安がある。それなら止めてしまえば良いだろうと言われそうだが、確かにそうなのだが、先日仙台文学館で開催されていた企画展で、彼の詩篇と正面から対峙した時に、これまで感じることのなかった血が騒ぐようになってきた。その血とは東北人=蝦夷としてのそれかもしれない。そんな連想を誘ったのは、最近読んでいる山内明美氏や川西英通氏から短絡的に触発されたからかもしれない。さらには、間接的には青木美希氏や寺尾紗穂氏からの影響もあるのかもしれない。いや、そうした連関を強く思わせた契機は、企画展において善助研究の泰斗である木村健司氏が関連の対談の最後に「最近、善助のアナキスト的側面を考えるようになってきている」と述べた結語、そして企画展冊子の文章において加藤理氏が繰り返し東北人としての善助を強調している一文、この二つに刺激されたことにある。

 彼の詩には亀之助や中也にはない、何か決定的哀しみが全体に貫かれているように、少しずつ思うようになってきている。亀之助にも中也にもない切迫感と言っても良いだろう。善助の詩篇をあえて比較するなら、中也はあまりに楽観的だと私は思う、彼には善助と異なり歌いきる余裕がある、と言っても良いかもしれない。いや、

中也には湿度が湿度のままあるとでも言ったらいいのだろうか。一方、善助の湿りは冷たく凍りかけている。それは何も北方を歌っているから・・・、という訳ではない。そうした意味で、彼はケガツの、エミシの、東北の人なのだ。それゆえ彼は、賢治に通底する、いや、賢治以上に東北の陰りを強烈に反映させた詩性を保持する詩人なのかもしれない。曖昧ぼかしの独断に近い印象批評はこの辺で止めにして、『亜寒帯』の冒頭の詩篇「移北」と戯れることからはじめたい。

 

 移 北

北に移住(うつ)ったギリヤークの

空しい草舎の秋の匂ひ……

散らばる鯨の骨は白く、

民族(くらん)の退化を思はせる。

 

貝や羽毛で飾った神は、

悲しく眴(めくば)せしたのであらう。

―北へ、あああの極北の方へ、

われら新しい国を建てよう。   

 

 冒頭の「ギリヤーク」という固有名にまずはつまづく。あるきみ屋版(この戯れはすべてあるきみ屋という出版社の森中氏が製作した版に依っている)の註によると、これはサハリン北部とアムール川河口地帯に住む民族ということだが、エスキモーなどと共に元々は大陸内部に暮らしていたが、モンゴルや中国などの諸民族によって千島列島やベーリング海沿岸に押し出された。つまり、「北に移住つた」のではなく、「ギリヤーク」は〈移住つらされた〉のであり、それゆえ「草舎」は「空しい」「秋の匂ひ」がするのだろう・そもそも秋という季節自体が季節の中でも最も感傷を誘う季節なのであるが、この詩篇においてはディアスポラのように故郷を持てない人々を象徴するように「ギリヤーク」が設定されている。それゆえに「散らばる鯨の骨は白く」、「民族(くらん)の退化を思はせる。」のである。何と言ってもこの「散らばる鯨の骨」の「白」さが鮮烈であり、哀しいほどの美しさを示してくる。

 ところで、この「ギリヤーク」、吉田美和子氏による『吉田一穂の世界』の吉田一穂年譜の記述に以下ような記述を見つけた。

   大正十二年(一九二三年) 九月一日、関東大震災に遭遇。中旬、上磯に帰郷。郷里ではカムチャッカ半島の北洋鱒漁業の視察を依頼され

   帆船「日鷹丸」に便乗して函館を出港。十一月頃、オホーツク海を航海中に事故を起して暴風に漂流、厳冬の氷の海に閉される。数日

   後、犬橇のギリヤーク人に救出されるが、密猟者としてハバロフスク・ウラジオストックなどに拘留される。

 故郷喪失の悲しみの日常の中にあって、どこからともなく現れた(いや、もしかしたらこれは民族の長かもしれない・・・)神が、オーロラの輝く「極光の方」=新天地を目指そう=「われら新しい国を建てよう」と、悲しみに沈む仲間たちに静かに静かに「眴せ」するのである。しかし、ここで目指される「新しい国」のイメージは、北極のようにも私には思え、決して緑豊かで温暖な、例えば冷害の東北にあって賢治が描いたイーハトーブのようには、解釈できない。「われら新しい国を建てよう。」とは言っても、希望というより、こう宣言することで一層の悲しみばかりが増幅されるのである。たとえそうであっても、この悲しみの美はいったい何だろう、いったい善助のどこからやってくるのだろう。吉田一穂の影もちらつく詩篇なのだが、あえて比較するなら、良くも悪しくもこの詩篇は、北方の人である一穂のそれのように(こんな言い方をしてしまうが)〈楽観的〉ではなく、(東北という北方の人・善助に書かれて)暗く冷たい。そして、一穂のように美しい。

 最後に、吉田一穂を敬愛していた加藤郁乎の句を。

   北へ! いま南中の羔〈こひつじ〉一揆