自虐日記10 | ヤドリギ金子のブログ

自虐日記10

  大して暑くもないのに「ガリガリくん」を冷凍庫から出してきてやけ食いする。一坪畑(のようなもの)にネキリムシなどというものがいた。じゃがいもがことごとくやられた。いったい何なのだ。嫌がらせのように、地面との境目あたりの主軸の茎を〈正確に〉齧り切っている。じゃがいもの地上部分の葉と茎全体が、狙ったように無惨に。耕作先輩の友人に聞いたら、「へぇー、そんな虫いるの? 私の畑では見たことないなー」。無性に腹立たしくなったが、同時にあんな灰色の幼虫のような(いや、ちゃんと調べてもいないからわかるはずないのだが・・・、何かの幼虫に間違いない形状だ)ものが、どうして家の畑だけ?に潜り込んだのか? 今までほぼほったらかしにしていた庭なので、たくさんの鳥、たくさんの虫が訪れては去っていったので、いるのが当然なのかもしれない。こうして書いているが、この内容はすべて私の無知から成り立っているのだが、それにつけても(しつこいようだが)、なぜこんなことが、こんな鼠色の3〜4㎝の細長い楕円形の虫が、小さな庭の隅の物置前にしつらえた畑に現れたのか、皆目見当がつかない。私はじゃがいもの周辺を掘り起こして、その虫を見つけると同時に、憎しみを込めて、スコップでズタズタに輪切りにした後、潰して地面に埋めた。

 畑を始めたのは、単純な動機だ。一種の暇つぶし、というより、この世界とこの自分への憂さ晴らしだ。徒労のような独白まみれの、教育というディシプリン仕事からほぼ解放されて比較的暇になったということもあるが、(こうして今もパソコンに向かってしまっているのだが)気まぐれな土いじりは、退職後に世間の反吐のようにして拍車がかかったSNS中毒により気忙しくなりかかる自分を、いっ時でもホッとさせるためである。土いじりの時間はわすが小一時間くらいに過ぎないのであるが、この時間は不思議とゆったり流れる時間だ。

 残務整理のように、積読本も食い散らかしているが、考えること自体の快楽に飽きてしまうと、自己満のようにも感じたり、思考から行動へのはるかな距離を痛感したりして、欲求不満に陥りかかる。そんな時は、畑にかぎるのだ。ほんの数分だけでも土いじりに無心になると、不思議に心が落ち着く。気ぜわしさから解放されたような気がする。いったい、この感触、この香りは何なのだろうか? 小一時間もしない、のにである。そんなのは畑仕事、農耕とは言えないと先の友人からも冷たく吐き捨てられるだろう。それでも、私は、この生だらな私は、良い。現に一呼吸させてくれるのだから。こんなものは自然との触れ合いでも何でもないし、現に農業にしても原理的には自然破壊に他ならないのだから。何て言ってみても、私の行っていることは、その自然破壊にすら当たらない。実に稚拙で中途半端すぎる、暇つぶしそのものの営みのようなものだ。

  そんなことを書いた後に、部屋に戻り、森崎和江さんと木村さんから頂いた石川善助資料を開く。森崎さんの言葉がずっしり重い。歴史と生活を抱え込んでいるからだろう。自分の言葉の軽さに眼を閉じて反省を促される。とは言え、それも気まぐれのような一瞬だけだが。石川善助資料は、明日木村さんの対談を聞くから、予習のこともあって読んでいるが、どうも善助の詩がスムーズに入ってこない。張り詰めた言葉の緊張感は十分に伝わってくるのだが、固有名の作為性がどうしても気になってしまう。繰り返しアプローチして「慣れて」いくしか、他の詩以上に、彼の世界に入り込む方法はないのだろう。亀殿の惚けた詩篇と無理矢理比較すると、彼の詩は砕けかかった石英のように純粋潔白なのだ。それにしても、彼が北方の海に憧れたのはなぜなのだろう?