花森安治「一銭五厘の旗」ー昭和44年9月号よりー | ヤドリギ金子のブログ

花森安治「一銭五厘の旗」ー昭和44年9月号よりー

 いったい〈くに〉とは何だろうか。地図をみると、ここからここまでが日本であるとわかる。しかし、この眼で、この足で、端から端までたしかめることはないから、実感としては、ピンとこない。

ぼくが、実感として〈くに〉を肌に感じるのは、税金をはらうときである。

税金は、〈くに〉の必要な経費をまかなうためだろうが、どういうものか、税金をはらうとき、〈お国のため〉などと考えたことはいちどもない。

 納める額が、去年より多いときはもとろんだが、かりに、すこしばかり減っていても、いつでも、税金を納めるときは、なにか、不当にしぼりとられているような気がする。

 こんなことをいうと、絶対に不当にしぼりとっていることはないと役人はいうにきまっている。しかし、ここで「不当に」というのは、とられ方というよりも、その使い方から受ける感じなのである。

ぼくにとって、〈くに〉とは、いつでもなにか不当にいためつけようとたくらんでいる、そんなもののような気がして仕方がない。

 毎日まいにち苦労して、朝早くから夜遅くまで、個人のたのしみなどは犠牲にして働いた金のなかから、こんなにごっそりもっていって、しかも、払ったぼくのなにか役に立つことには、一銭も使った気配がない。そうなると、どうしても「不当にしぼりとられている」という感じがぬけきれないのである。

 話は余談になるが、まえに住んでいた区では、区民税をはらいに行くと、窓口にいるおじさんが、いつでもきまって、「どうもこんなにたくさん払っていただいてすみませんね」と、ひとこと挨拶するのである。税金をはらってこういわれたのは、この区役所で、この人が窓口にいるときだけである。考えてみると、これくらいの挨拶は、どの区役所でも、どの税務署でも、あってしかるべきではないか。

 余談になったが、どうも、ぼくの払っている税金で、せっせとジェット機の車輪をつくったり、ミサイルの引金を注文したり、高級官吏の官舎を建てたりしているような気がして仕方がない。

 ひとつ、ことのついでに、ぼくと日本という〈くに〉の、これまでのつきあい方をおもいかえしてみて、いったい、〈くに〉からぼくが借りているのか、貸借対照表簡単につくり上げてみよう。

まず、生まれてから小学校へ行くまでは、べつに、〈くに〉とぼくの間には、貸し借りはなかったようにおもう。

小学校に上がってからは、いまとちがって、給食もないし、教科書もくれなかったから、すこしはぼくのほうが貸したのかもしれない。

しかし、それからずっと、公立や国立の学校ばかりだったから、これは一人あたりいくらというものを、〈くに〉からぼくが借りていることになる。

 学校を出ると、とたんに徴兵検査があって、甲種合格となった。ちょうど日華事変の勃発した年で、入営するとたちまち前線へもっていかれた。

 ずいぶん、苦労した。

あげくのはてに、病気になって、傷痍軍人になって、帰ってきた。

このあたりは、ぼくが〈くに〉に、そうとう貨していることになる。しかも、ぼくは、軍事教練に反対して出席しなかったから、将校になる資格はなかった。帰ってきたとき、上等兵であった。

それを不服でいっているのではない。兵隊と将校では、おなじ召集でも、〈くに〉に貨した額が大いにちがうということをいっておきたかったからである。

 そして、戦争に負けた。その日から今日まで、二十年あまりの年月が流れている。年々、税金は〈不当〉にとられているが、〈くに〉から、ぼくがなにかしてもらったということは、ひとつもないのである。

人によっては、ずいぶん〈くに〉からいろんなことをしてもらっているのがあるらしい。補助金をもらったり、都合のいいように法律をかえてもらったり、外国商品や資本が上陸するといえば、そうしないように保護してもらったり、いろんなことがあるらしい。

しかし、ぼく自身や、ぼく自身がやっている仕事は、国家から一銭の援助をしてもらったこともなし、一銭の税金をまけてもらったこともない。

 それどころか、ぼくたちの税金でまかなっている研究所や試験所に、商品テストを依頼すると、業者がこまるからという理由で、ことわられることもたびたびあったくらいである。

つまり、ぼくにとって、〈くに〉とは、ぼくたちの暮しや仕事をじゃまするものでこそあれ、けっして、なにかの役に立ってくれるものではないのである。

・・・・・・

 しかし、いまの日本のように、べつになんにもしてくれないで、いきなり、みずから〈くに〉を守る気概を持て、などといわれたって、はい、そうですか、というわけにはゆかないのである。

はい、そうですか、といって戦ったのが、こんどの戦争であった。ぼくだけではない、みんなが、〈くに〉は守らねばならないとおもっていた。そのためには、一身をなげうつのも、いやだけれども、仕方がないと思っていた。

こんどの戦争では、ずいぶん多くの国民が〈くに〉に〈貸した〉筈である。

 さきほど、ぼくが、えらそうに、〈くに〉とぼくの間でどれだけの貸し借りがあるだろうかなどと、洗いたててみたがもちろん、ぼくなどは問題ではない。

 もっと大ぜいの人が、ぼくなどよりずっと多く、この〈くに〉に貨しているのである。

 赤紙一枚で召集されて、死んだ人たちがいる。

 その遺族たちがいる。

 しかし、この人たちは、まだいいのかもしれない。恩給などで、いくらか〈くに〉は借りをかえしている。

 空襲のために、家を焼かれ、財産を焼かれ、家族を失った人たちがいる。

 この人たちには、一銭の補償も、いまだにない。

 戦争のために、男の大半が、〈くに〉の外へ出ていった。のこされた職場を女が守った。そのために、とうとう結婚の機会を失い、いまだに、その職場をまもって、しかも、上役や後輩にけむたがられ、ばかにされながら、じっとこらえている大ぜいの女性がいる。

この人たちに、〈くに〉は、まだなんにもかえしていない。

そのほか、まだまだ大ぜいの人が、この〈くに〉に貨している。

 それらを貸したのは、敗戦までの〈大日本帝国〉である。戦後の〈日本国〉とは、一見、おなじようにみえても、じつはぜんぜんべつの〈くに〉である。

 そういう考え方が戦後生まれた。いまの〈くに〉は、戦前の大日本帝国の負債をはらう必要はない、という考え方がそこから出てきた。

 払いたくないときには、この理屈がおもてに出てくる。しかし、一方では地主の補償や軍人恩給や、あるいは在外資産の補償や、あきらかに、〈大日本帝国〉の負債の一部をかえしたり、かえそうとしている。

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 その日本という〈くに〉は、いま総生産世界第二位などと大きな顔をし、驚異の繁栄などといわれてやにさがり、そして、したり顔をして、みずから〈くに〉を守る気概を持て、などと叱りはじめている。

 こんどの戦争で、一銭も返してもらわなかった大ぜいの人たちは、それを忘れてはいない。なにもいわないだけである。いわないのをよいことにして、ふたたび、〈くに〉を守れといい、着々と兵隊をふやし、兵器をふやしている。

よっぽど、この日本という〈くに〉は、厚かましい〈くに〉である。

いつでも、どこでも、〈くに〉を守れといって、生命財産をなげうってまで守らされるのは、日ごろ〈くに〉から、ろくになんにもしてもらえない、ぼくたちである。

こんどの戦争で、これだけひどい目にあいながら、また、祖国を愛せよ、〈くに〉を守れ、といわれて、その気になるだろうか。

その気になるかもしれない。

ならないかもしれない。

ここで〈くに〉というのは、具体的にいうと、政府であり、国会である。

〈くに〉に、政府や国会にいいたい。

〈くに〉を守らせたために、どれだけ国民をひどい目にあわせたか、それを忘れないでほしい。

それを棚あげにして、〈くに〉を守れといっても、こんどは、おいそれとはゆかないかもしれない。

誤解のないようにことわっておくが、こんどの戦争の犠牲者に補償しろとぼくはいっているのではない。できたら、するにこしたことはないが、それよりも、いまの世の中を、これからの世の中を、〈くに〉が、ぼくたちのためになにかしてくれているという実感がもてるような、そんな政治や行政をやってほしい、ということである。

 それがなければ、なんのために〈くに〉を愛さなければならないのか、なんのために〈くに〉を守らなければならないのか、なんのために、ぼくたちは、じぶんや愛する者の生命まで犠牲にしなければならないのか、それに答えることはできないのである。