だらしなくゆるんだ涙腺のこと、そして、木山捷平さんの詩へ | ヤドリギ金子のブログ

だらしなくゆるんだ涙腺のこと、そして、木山捷平さんの詩へ

 最近「異常に」涙もろくなっている。唐突に感情失禁が襲ってくる、とは大袈裟かもしれないが、とめどなく溢れてくるこの液体は何なのだ。『PERFECT  DAYS』を観た。何気ない主人公の所作に涙が滲んで、ついには溢れる。いったい何なのだ! 感動? そんなものではない。

 中年にさしかかり、私に双子が生まれた。朝早くに病院から呼び出され、妻は「ラマーズ法」で出産した。つまり、私が立ち会って、「手伝った」。妻はリラックスして、苦しむ様子は少なかった。産みつつ私と会話すらした。「男の子なの?」「次は?」・・・

    医者に促され、二人の子の臍の緒を大きな鋏で切った。太い臍の緒だった。「母と子の絆」を切ることに一瞬ためらった。一人目(長男ということになるらしい)が誕生した後、二人目まで少し間があった。次男が母親を休憩させている、と医者が言った。

 太い臍の緒、心音、産声、そして母への子の気遣い・・・すべてに圧倒され、生命の輝きに酔ったまま、もう用無しになった私は、外へ出た。そうしてたまたま入った映画館で上映されていたのが、ヴェンダースの傑作『ベルリン天使の詩』だった。生命の輝きによる酔いは、この映画の輝きと重なりあった。私は感涙した。

 私は極度にメロドラマが好きである。悲恋物語が好きである。それは「泣ける」からである。涙が私の中の汚れた感情を洗い流してくれるような気がするからである。いわゆる、カタルシスというやつだ。

 しかし、この時の涙は哀しむことに自己陶酔するような涙ではなかった。言わば、生きる喜びに満ちた涙だった。ヴェンダースの映像もそうだった。相乗効果というのだろうか、出産立ち会いの感情を映像が増幅して、私は涙に溢れた。

 そうして、今回の『PERFECT  DAYS』だ。今回も私は泣いてしまった。しかし、今回は増幅させる前提は何もなかった。にもかかわらず、私はあの時以上に、ポロポロ、ポロポロと、心地よく泣いていた、だらしなく泣いていた。主人公の何気ない所作に、彼の風景への視線に、風景そのものに、淡々と進む時間の中にあるかそけき光に。当たり前なのであるが、映画は「映像」で見せるものだ。ストーリーなんかでは断じて、ない。美のはかなさ! に私は泣き、老化を感じるとともに、その老化をいっしんに受け止めたいと思っていた。

  先日、FBの畏友から頂いた詩誌において木山捷平さんが紹介されていた。村上春樹経由で私も好きだった詩人であるので、嬉しくなった。そこで、私の能天気な涙よりも「深い」、木山捷平さんの「涙」という詩を。

 

  涙

夜が更けて

つるし柿をむいてゐるおばあさんの目に

涙がたまってゐた。

 

何のなみだか

かんてらの灯にひかってゐた。