『海をあげる』(上間陽子)より | ヤドリギ金子のブログ

『海をあげる』(上間陽子)より

「沖縄のひとたちが、何度やめてと頼んでも、青い海に今日も土砂がいれられる。これが差別でなくてなんだろう? 差別をやめる責任は、差別される側ではなく、差別する側のほうにある。

 2018年末にはじまった土砂投入は、19年までの一年で工程表の一パーセントを終えたらしい。普天間基地を閉鎖するという名目でなされる、じりじりと沈む大地に杭を打つ辺野古基地の完成には、これから100年かかるというわけだ。

 そして私は目を閉じる。それから土砂が投入される前の、生き生きと生き物が宿るこっくりとした、あの青の海のことを考える。

 ここは海だ。青い海だ。珊瑚礁のなかで、色とりどりの魚やカメが行き交う交差点、ひょっとしたらまだどこかに人魚も潜んでいる。

私は静かな部屋でこれを読んでいるあなたにあげる。私は電車で読んでいるあなたにあげる。私は川のほとりでこれを読んでいるあなたにあげる。

 この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる。」

 

 ざっくり断定的に言ってしまう。この言葉は、本土(いやな言い方だ)の人間(=ヤマトンチュー)たちに向けられた、痛烈な思いだ。差別する側に向けられた言葉だ。決して声高にならないが、切っ先が鋭い怒りの言葉だ。かと言って、冷たく突き放すこともない言葉だ。約2ヶ月後に沖縄に「観光」で行こうとしている私は、上間さんの言葉=思いを、どのくらい感じることができるのだろうか?