日本軍の総攻撃失敗―「琉球新報」⑨― | ヤドリギ金子のブログ

日本軍の総攻撃失敗―「琉球新報」⑨―

1945年(昭和20年)4月27日市町村長会議、

(島田知事)「戦争がどのように激しくても、またどのように長引こうと、住民を飢えさせることがあっては行政責任者としての最大の恥辱である。是が非でも住民の食料を確保することが至上の命題

4月16日、米軍、西原村で日本軍の文書『西原地区における戦闘実施要領』を入手。英訳して部隊に配布→米軍が民間人を攻撃部隊とみなす一因となってしまった

服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である。住民の服を借りてあらかじめ確保せよ」「一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人割り当てよ」「敵を欺け、しかし敵に欺かれるな」攻撃の案内に「現地住民を連れてゆけ」

首里に進攻した米軍は4月25日までに浦添村城間、伊祖、西原村棚原、和宇慶の線まで達し、朝から総攻撃を開始した。

日本軍主力が陣取る仲間―前田高地。「日本軍が守ってくれる」と信じていた住民は地元にとどまり、軍民混在の戦場で多くが犠牲。

斬り込みを強要され犠牲になった防衛隊員、自分達で苦労して作った避難壕を日本軍に追い出され戦場をさまよう住民。軍による食糧強奪。

南風原村の沖縄陸軍病院壕。薄暗い壕の中にはふん尿、膿などの悪臭が漂い、負傷兵のうめき声が絶えない。「足を踏み入れる所もないくらい重症患者と死体が並んでいる」

第三外科軍医の長田紀春さん(24歳)「一睡もしないことがある・ご飯も立ったまま食べていて、医者の中にも倒れた者もいる」

米軍、「避難県民に告ぐ」と題したビラを撒く心理作戦。「潜行日本兵と間違いを生じる恐れがある」という理由で「夜間は決して米軍占領地に入ってうろうろしないこと」と警告。「日本兵の軍服軍帽脚絆を決して着用しないこと」と呼び掛けた。また、イラスト入りで「飛行場に近づくな」「道に近寄るな」「軍事施設に近寄るな」「弾薬厰に寄るな」などと注意

4月27日、第三十二軍と憲兵隊の代表は県庁壕の会議で、宣伝ビラをむやみに拾ったり、試遊すると米軍のスパイとみなすと注意を促す。

4月29日の幕僚会議で戦略持久戦から「攻勢に転ずるべきだ」という主張高まり、司令部内の対立が表面化

(4月30日、アドルフ・ヒットラー総統、ベルリン市内の地下壕で自殺)

5月1日、沖縄後方指導挺身隊(総帥・島田叡知事)を編成、戦場行政機構

戦場行政、①必勝信念および敵愾心の高揚②避難民の受け入れ③壕の増強④食糧増産⑤スパイの発見逮捕

5月3日、総攻撃前夜、首里城の地下三十㍍にある第三十二軍司令部壕

将軍や参謀が総攻撃の戦勝前祝いの酒盛り、入り口に「天岩戸戦闘司令所」の看板

「各将軍はアルコールの回るにつれ、朗らかになり、明日の戦いを語り、必勝を論じ、談笑尽きない。盛装の娘たちが、華やかに酒間を斡旋する。自信に満ちた、和やかな楽しい空気が洞窟のすみまでゆきわたり、ご馳走にありつけぬ、幕外幾多の将兵もなんとなく楽しくなる」

昭和天皇「今回の攻勢は是非成功せしめたきもの」と期待。

米軍との兵力差は一対二十で劣勢。

5月4日午前四時五十分から5日、第三十二軍(牛島満司令官)、浦添村から西原村に進攻した米軍に対し総攻撃

「第二四師団が裸で比較を越えた敵を攻撃するのは無謀、無意味な玉砕攻撃にほかならない」(八原高級参謀)

「無意味な自殺的な攻撃に過ぎぬものと思います」(原博通高級参謀)

米軍陣地へ約一万三千発の砲弾を打ち込む、午前五時以降、西原村の小波津、翁長、棚原、浦添村前田などの米軍陣地に襲撃、米軍の攻勢に阻まれ作戦難航

5日午後六時、牛島司令官は攻撃中止を命じ、総攻撃は失敗

「なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯(行き着く果て)、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である」と牛島が八原に

6日、首里を中心とした東西に部隊を配置し、航空機の特攻作戦と連携した持久戦へ戻る

日本兵約五千人が戦死、戦力は極度に低下、沖縄戦の敗北は決定的

本島北部に疎開できなかった、浦添、西原両村にとどまっていた住民多数が犠牲

日本軍による食糧強奪、避難壕から追い出されて犠牲となる住民多数

米軍の死傷者は約七百人

大本営、「今後の沖縄作戦の見通しは明白」「沖縄作戦に多くの期待をかけること自体無理」

「一旦上陸を許せばこれを撃攘はほとんど不可能」「洋上撃滅思想の徹底により不可能を可能にする」覚悟が必要と認識

5月上旬、前田高地。墓を出て首里以南へ避難することにした富本さん。井戸水をくみに行った父親が胸を真っ赤にしながら墓の中に倒れ込んだ。「クヌ水ヌメーカラ(この水を飲んだら)、ムルヒンギレー(みんな、逃げなさい)」押さえる指の間から血を噴き出しながら父親は最後の力を振り絞って命じた。一時間後、銃口が墓に向けられ「デテコーイ。デテコーイ」片言の日本語で米兵が呼び掛けた。しかし「捕虜になれば殺される」と思い、誰も出て行かない。そんな中、年配の女性がゆっくりと外に出た。その後「おいで」とみんなに手招きした。

「村がなくなったが、どうにか死ななかった」

渡嘉敷島、5月中旬のある日、山中に立てこもる海上挺進第三戦隊(赤松隊)に投降を呼び掛けるため、六人の伊江村民が米軍に呼び出された。「男だけではしんようされないかもしれない」として、三人は女性が選ばれた。日本軍は六人を戦争忌避の目的で陣地に潜入した「米軍のスパイ」と見て捕らえた。そして自らの墓穴を掘らせて、その中に立たせた。「ここに来ることを母に言っていない。母に会ってから殺して」安子さんは懇願した。しかし兵隊は「あの世で出会え」と取り合わず、刀を振り下ろして全員を殺した。

子ども三人の「死」をはっきりと確認した後、生きるために再び壕を出た。数日後に識名当たりにたどりつき墓の中に隠れた。その直後、米兵三人が目の前に現れた。「ワッター、クルスミィー(私たちを殺すのか)」体を震わせる石川さんに米兵の一人が、子どもが写った自分の家族写真を見せた。何を話しているのかは分からなかったが「私にも家族がいます。絶対に殺しません」と言っている気がした。