必然的引用からの気まぐれのつまみ食い、死ぬまでの暇つぶし | ヤドリギ金子のブログ

必然的引用からの気まぐれのつまみ食い、死ぬまでの暇つぶし

 

 

「葆光とは外にきらびやかに出る輝きではなく、内にこもった光のことである。知識は、わからないところでそのまま止まっているのが最高の知識、わからないところを強いてわかろうとし、またわかったとするのは真の知識ではない」(荘子)

「生きても生きなくても同じになったとき、完全な自由がはじめて得られる――こういう想念は、いわば恐ろしいほどの魔力的な意味をもっているのであって、生の領域のなかで一定の目的と信念をもって努力しているものにはすぐ振り棄てられるところの危険な想念なのである」(埴谷雄高)

「私は無であることを愛さなければならない。もし私が何かであるとしたら、どれほど恐ろしいことだろう。私の虚無を愛すること、虚無であることを愛することだ」(シモーヌ・ヴェイユ)

 いくら、せこい仮面をかぶろうとしても、化けの皮はあっさりはがれる。仮面なぞ最初からかぶろうとしなければどんなにか楽になれることだろう。肉に食い込みかかった、人格などという欺瞞のこの仮面を。しかし、中途半端なエゴイストである私は、すぐさま臆病に気取る。いっこうに居直れない。居直るポーズだけで精一杯。

 消えてなくなれない。感情を捨ててもいいです、とあっさり言えない。ああ、またもや、またもや、バートルビーがよぎっていく。