『障子のある家』へー尾形亀之助の詩について112ー
落日
ぽつねんとテーブルにもたれて煙草をのんでゐる
部屋のすみに菊の黄色が浮んでゐる
昼寝が夢を置いていつた
原には昼顔が咲いてゐる
原には斜に陽ざしが落ちる
森の中に
目白が鳴いてゐた
私は
そこらを歩いて帰つた
「テーブルにもたれて煙草をのんでゐる」から「そこらを歩いて帰つた」までの時空移動がよくわからない。
「昼寝が夢を置いていつた」とあるから、この行以下は白昼「夢」なのだろうか?それとも、すでに夢は過去となった昼寝時に見てしまっていて、「煙草をのんで」ぼんやり「部屋のすみ」の「菊の黄色」を無為に見ているうちに、昼寝で見た夢を詩人が思い出しているというのだろうか?思い出しているとは言わないで、詩人は「昼寝が夢を置いていつた」とする。意識的な想起ではなく、煙草をふかし菊の花を見ていたら、ふいに、いや、煙草と菊の花を見たことが契機になって、昼に見ていた夢が夢自身の方から意志があるように眼前にやってきた。そこには「原」が広がり、「昼顔が咲」き、「斜に陽ざしが落ち」て、さらに移動があって「森の中に」進むと「目白が鳴いて」おり、「夢」の中で「そこらを歩いて帰った」のだろう。しかし、「帰った」というのは、いったいどこに?現実へと目覚めた、ということなのだろうか?夢という物語の中のどこかに帰ったということなのだろうか?