『障子のある家』へー尾形亀之助の詩について111ー
坐つて見てゐる
青い空に白い雲が浮いてゐる
蝉が啼いてゐる
風が吹いてゐない
湯屋の屋根と煙突と蝶
葉のうすれた梅の木
あかくなつた畳
昼飯の佗しい匂ひ
豆腐屋を呼びとめたのはどこの家か
豆腐屋のラツパは黄色いか
生垣を出て行く若い女がある
今日は「沖縄 慰霊の日」だ。六月十五日にいわゆる「共謀罪」が、一九六〇年の同じ日に日米安保の改定が、いずれも強行採決で、祖父とその孫によって、そして、その日米安保は一九五一年に。この条約によって返還後にも沖縄に米軍基地が集中することが当然のようになってしまった。なぜ沖縄に集中したのか、そのスタートは沖縄戦に他ならない。鉄の暴風によって四人に一人、十二万人以上が犠牲になった沖縄。しかも、周知のように、県民の中には味方であるはずの日本軍によって殺されたり、集団自決に追いつめられたりした人々も多かった。日本兵には東北人もいた。ヤマトンチューの我々は、相変わらず沖縄県民に基地を押しつけたままだ。
そんなことを思いながら、思うがゆえに、私は亀殿の言葉に向かう。
詩人は表題の通り「座って見てゐる」のだが、この定点観測者に流れる時間は相変わらず緩慢だ。その緩慢さが、のどかさとは少し異なったというか、明るさと寂しさが一体になった不思議な雰囲気を感じさせている。「風が吹いてゐない」「蝉が啼いてゐる」とあるから、真夏なのだろう。しかし、じりじりと太陽が照りつけるような激しい暑さを感じさせない。実際は暑いにちがいないのだろうが、詩人は汗を流しながら、風景を冷却するように淡々と観察している。それぞれの描写が、いっさい劇的ではないがゆえにそのことがかえって何とも言えず印象的だ、素敵だ。
色彩へ注意する視覚から嗅覚へ、そして聴覚、最後に、詩人が好む「黄色」のイメージに続き「若い女」への視覚へ。遠景から近景へ、そしてその中間の景色へ。