とんでもない比較 | ヤドリギ金子のブログ

とんでもない比較

 昨日、二人の「芸術家」が登場する2つのTV番組を観た。一人は楽吉左右衛門氏、もう一人は河合正嗣氏。最初は楽氏の、そのスタイリッシュな姿に胡散臭さを感じつつも、彼の造形した茶室の贅沢な「現代的」わびの在り方におもしろさを感じた。その後、夕方に河合正嗣氏の命がけの絵画制作を観た。前者と比較するのは、安易なのかもしれない。しかし、午前に観て、同日の午後に観たということもあり、そしてまた2つとも異なった意味において印象深かったということもあり、どうしても比較してしまう。つまり、取り巻きのアホなプチブルたちも含め、権威主義にあぐらをかいたからこそ実現した、「必要な」無駄!これが文化の本質のひとつでもあるとは思いつつ、楽氏の何から何までに反吐がでてしまった。
 一方、声にならない声で、ふり絞るように言葉を紡いでいく河合氏の存在に、私は圧倒されっぱなしだった。とりわけ、彼が不可逆的な病の(死への)進行かあるにもかかわらず、自己を鋭く対象化している実存には、楽氏の安穏とした芸術家気取りと比較すると天と地の差がある。彼はあの「9.11」の背景の空を美しく思った自分の悪を凝視してさえいる。この視点から私はすぐに最近亡くなった作曲家・シュトックハウゼン氏の事件を連想した。

また、自分の書く「ほほえみ」が自分のすべてを投げ出しそうな「否定的感情」に裏打ちされているかもしれないとしてその「矛盾」(これは矛盾ではない!真理だと私は思うが・・・)を彼は冷徹に自己分析する。

人間の両義性に不寛容な今の社会を憎悪しつつ、安穏とした自然観を猿のように吐露するおぼっちゃま芸術家に吐き気がした。それに一瞬面白みさえ観た自分を嫌悪した。

 当然だが「筋ジス・・・だから・・・」という接頭語はいらない。しかし、いらないが彼を彼たらしめているのも筋ジス・・・なのだ。こうした短絡こそが誤解を生む。彼の絵画そのものを観なければならない。似而非ヒューマニズムをふきとばす、普遍的な強度を持っている彼の絵画。うわついた人工そのもののでしかない茶室の破壊を私は妄想してしまった。超軟弱な私は、超バカな比較とはこのことをいうのだろうなと、抗癌剤を飲みつつ思う。