自分のやってきたことをまとめてみたいと思う。
自分は、大きな失敗をした。しかし、この失敗経験が自分を成長させたと思っている。
それは、自分でも思い出すのが嫌なくらいの出来事だ。
自分が派遣された先は、15店舗を経営する飲食企業「長戸屋(仮名)」。業態は2つ。アッパー業態「長戸屋本舗」は1店舗、リーズナブル業態「長戸屋」は14店舗あった。自分が派遣された当時、会社の状態は年売上14億円 年間約1000万円の黒字。という状態だった。
長戸屋のオーナーは名前の通り、長戸氏(仮名)。彼は敏腕経営者として、本業である不動産事業では、非常に有名な方。バブル時代に蓄財し、その余剰資金で始めたのがこの長戸屋だった。
社長は肥後氏(仮名)、オーナーである長戸氏の秘蔵っ子だった肥後氏がオーナーの意向を受け、経営を行っていた。肥後氏は33歳で、26才から長戸屋で働
き、一社員から店長、ブロック長と勤め、長戸氏から経営を託されたいわば現場たたき上げの社長だった。若く、才覚もあり、非常に腹の据わった経営者であった。
この長戸屋は個室居酒屋として、1990年代にいくつもの雑誌で取り上げられ、居酒屋の中でもおしゃれで新しいコンセプトを打ち出した業態として、一
世を風靡した。
開店当初は、いくつもの雑誌に取り上げられ、お客さんは予約待ちでいっぱいの状況だった。バブルの余波もあり、内装にも力を入れていた。当時の商業建築の雑誌などでも、英語で紹介されるほど、洗練されたデザインであり、店舗で働く従業員の制服もおしゃれなものだった。
メニューも本格的な懐石の要素を取り入れながら、客単価は4000円ほどのお手頃な料理を提供していた。
当時の事業計画では、10年で日本全国に200店舗の店舗を拡大し、新しい飲食チェーンを作ることをゴールに掲げ、5年で上場企業になることも視野に入れていた。
資本構成は、長戸氏70%、残りは大手のVCから調達していた。
店舗が10店舗になるくらいまでは、開店と同時にお客さんが押し寄せ、営業利益率30%の店舗は普通。IRR、ROEも半端なく、VCからも期待の企業として名をはせていた。資本をVCから調達していたため、上場は必達目標となった。また、ビール会社などからも出資を募り、FC展開をすることを前提にまたお金を集めてということで、都合50億近くの資金を集めてしまった。
集めた資金は加速度的な出店を促した。
初めの4店舗を出すために8年かかったが、その後2年で40店舗ものお店を出店することになる。
都内山手線の主要駅前に出店するという戦略は40店もの出店の前には役に立たず、気がつけば、立川や新横浜などの地域にも出店をしていた。
VCの監視のもと、経営目標はいつの間にか、出店数になってしまい、出店することが仕事の本部社員。
またたく間に広がった店舗網は、当該人材で回していける規模ではなくなっていた。
店舗ごとのクオリティの格差は広がり、ろくに従業員教育もしないままに、店舗は営業を続けていた。
気がつけば、お客様の満足度は下がり、次第に売上は低下していった。
また長戸氏の本業である不動産事業においても、大きな穴があき、飲食事業で集めたはずの資金が不動産事業の穴埋めに使われたりした実態もあり、金融機関や出資者からの信用も傷が付いて行った。
ついに、リースの与信もつかず、出店はストップ。資金繰りは急速に悪化した。
役員は辞め、従業員も抜け、未払・借入金の返済のために、店舗の敷金を回収するために不採算店舗から閉鎖していくという状況が4年ほど続くはめになる。
この苦しい状況で、社長を行っていたのが、肥後氏だった。肥後氏もなりたくて社長になったわけではない。
人が櫛の歯が削れるように辞めていく中で、長戸氏に抜擢されて社長に就いた。
それほどの責任のある立場に、肥後氏が就任したのも長戸氏との間にある人間関係があったからこそ続けてきた。肥後氏は長戸氏のことを親父(オヤジ)と呼ぶ。
ここ数年赤字を計上してきたが、肥後氏のがんばりもあり、やっと黒字へ浮上させたばかりであった。しかし、次の期がはじまって3ヶ月、好調であった業績はさかさまになる。実に半数の店舗が赤字に転落。キャッシュが繁忙期で100万ほど、閑散期は500万円ほどのキャッシュがなくなっていく。余裕資金はわずか3000万円。この3000万円がなくなれば、運転資金ぎりぎりという状況。
結局、長戸氏はこの事業の再生を果たせないことを再認識し、再生事業社である当社に売却の打診を求めてきた。
この会社に自分は行くことになった。
目標値は、営業利益率5%の店舗経営にすること。
自分は、このチャンスを何とか物にしたいと思っていた。この企業を見事再生させて、自分のキャリアの一歩にしたい。そんな思惑で頭にはあった。いくつもの流通事業のコンサルやDDをしてきたとは言え、自分は飲食企業の門外漢。業界の知識はすくなく、不安もあったが、再生する自信はなぜかあった。
まずはじめに、マネジメントインタビューから始めた。