今日紹介させていただくのは、
森永卓郎氏の『日本人「総奴隷化」計画1985-2029』です。
森永卓郎氏の著書を手に取るのは、これで3冊目。
過去に拝読した「ザイム真理教」や「書いてはいけない」は相当パンチが効いた内容でしたが、今作も十分パンチが効いています。
特に、日々の情報源がオールドメディア一辺倒の方には、衝撃的で到底信じがたい内容だったかもしれませんね。
「陰謀論だろ、こんなの」
それを言った瞬間、思考停止に陥ります。
今は激動の時代です。
その一言で、「知りたくない」もしくは「聞きたくない」情報に蓋をして、それで済めばどれだけいいかと思います。
そもそも、陰謀論とは何なのか?
陰謀論とは、本来は「ある特定の個人または団体が」「ある特定の意図をもって」「秘かに」「その他の個人または団体を騙す、又は貶めるために練った計画」を「論じる事」を指すのだと思います。
しかし、近年はその使い方に変化が生じていて、
「到底ありえないような話」をした人に対して、「それ陰謀論だろ」と言うのが一般化してきているようです。
特に、「左寄りの方」が「中央~右寄りの方」に対して使う頻度が多いように思います。
ところが、その話が陰謀論かどうかは、その時点で多くの人がわかっていません。
わかっていないのに、思わず言ってしまうのは、
「その話が信じられない」
「頭が良い俺(私)が知らない筈がない」
その他、「このままでは、こいつに論破されてしまうかもしれない」的な感情も高まって
「それ陰謀論だろ」と言ってしまい、相手の意見・言論に対して「それ以上言わせない」という、いわば言葉狩りのための道具として使われる事が多いようです。
森永氏の話はとても広範囲に「びっくり仰天な内容」が多く、「彼の話が全部正しかったら、今までのTVや新聞は何だったん?俺らみんな騙されてたんか!?」となるため、すべて陰謀論として片づけられる可能性はあります。
しかし、先ほど言ったように、それが陰謀論かどうかは、調べてみないと、その時点では誰もわかっていません。
それをせずして、「もう聞きたくない」と言わんばかりに耳を塞ぐ、または相手の口を塞がせるような行動は、思考・議論する機会の喪失につながっていると思います。
そもそも日本人は寛容な民族です。
「そんなバカな!」と思っても、言われた相手にわからないようこっそり調べてみて、その話の裏を取るとか、自分なりの考察をした後、それが事実か否かを判断してきたのではないでしょうか。
最初から有無を言わさず突っぱねるという行動は、不寛容としか言いようがありません。
わざわざ問題提起してくれた人がいて、思考・議論する機会を得ながら、冒頭から「お前の言う事は出鱈目だ」とその機会を自ら放棄するのは不寛容の極みであり、非常にもったいないと思うのです。
誤解しないでほしいのは、私は森永氏の著書がすべて正しいと言っている訳ではありません。
ただ、誰も触れてこなかった話題に触れた勇気と覚悟は感じますし、どの内容についても、再考するための貴重な機会を与えていただいたのではないか…と思っています。
森永氏が自らの最後の命の炎を燃やして書いたいくつかの本は「売って金儲けするため」だけに書かれたのでしょうか?
彼がそこで巨万の富を得たとしても、余命いくばくか…と言われていた彼にはもう使いようがありません。
人は自分の命が有限である事を知った時、現姓利益から解放され、自分自身と素直かつ真摯に向き合い、今の自分に出来る事に没頭するのではないかと思うのです。
(かつて、「神風特別攻撃隊」のパイロットがそうであったように)
そのような状況で書かれた著書だからこそ、読む側の人間としても真摯に向き合い、独自に調べ、考え、「インフォメーション」⇒「インテリジェンス」へと昇華させていく事が大切なのです。
これからの時代、一人一人がどのくらいの「インテリジェンス」を持っているかで大きく人生は変わってくると思いますよ。
最後に、
「脱奴隷化のための「一人社会実験」の章」は目から鱗でした。
と同時に、とても腑に落ちました。
若い頃はとにかく東京、大都会に出たくて仕方がなかった私が、今は東京や大都会に全く魅力を感じなくなっているのがその証左なのかもしれません。
晩年、数多くの著書を発表し、獅子奮迅された森永卓郎氏。
惜しくも、今年1月28日に永眠されました。
ご冥福を心からお祈りいたします。