5分で学ぶ神の律法
by Darren Huckey
Tetzaveh 失われた神聖さ 出エジプト記27:20-30:10
by 小木真人
パラシャ・テツァヴェは、主に祭司職に焦点を当てています。コハニム(祭司)の任職式の一環として、アロンとその息子たちは雄羊をささげ、会見の天幕の入口でそれを食べるように指示されます。
あなたは任職のための雄羊を取り、聖なる所でその肉を煮なければならない。アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンを食べる。彼らは、自分たちを任職し聖別するため、宥めに用いられたものを食べる。一般の者は食べてはならない。これは聖なるものである。(出エジプト記29:31-33)
この節によれば、雄羊は贖罪、任職、聖別の3つの役割を果たしていました。祭司たちはこれを食べるように命じられましたが、一般の者が食べることは禁じられていました。レビ記22:10ではこれを補強して、「一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない。祭司の寄留者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない」と記されています。これらの指示は、一般に主の晩餐と呼ばれるものを口にする際のパウロの指示に似ています。
したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります...みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
(第1コリント人への手紙11:27, 29)
ディダケ(聖書正典外の使徒たちよる異邦人信者に対する最も古い教えの書の一つ)は、この禁止令を、イェシュアを信じるに至っていない人々に対するものと狭い意味で解釈し、こう記しています。
主の名によってバプテスマを受けた者以外は、あなたがたが祝福したものを食べたり飲んだりしてはなりません。なぜなら主は、「聖なるものを犬に与えてはいけません」(マタイの福音書7:6)と告げられました。(ディダケー9:5)
祭司のために聖別された食物のように、これらのものは 「部外者」、つまり神聖な交わりの中にいない人々には禁じられています。イシュアは、私たちに代わって贖いをするために、ご自分の体と血を拝げられました。それゆえ、イシュアに従う者たちが口にするパンとぶどう酒は、イシュアの死と復活、そして再臨を記念するものであり、使徒たちはそれらを祭司職のための食べ物と同様の神聖さで扱いました。聖なるものには、その聖さが損なわれないようにする境界線が必要なのです。
聖なるものとは、特定の目的のために神に取り立てられることです。現代人は、あるものが聖なるものであるという考えは、他のものは聖なるものではないということを即座に想像するため、受け入れがたいのです。人は周りの人と違うことを嫌います。 周りの圧力に屈し、群衆から目立つよりも群集心理に従おうとするのが人間の気質です。現代の宗教の目標は、神聖なものを、あえて聖別しない事にあるようにさえ思えます。平等性を崇拝する社会では、大衆には近づきがたい要素を含む宗教という考え方は受け入れがたいものです。それゆえ、今日の聖職者たちは、区別のしるしを避けるために、信徒と同じように一般的でカジュアルであろうと努力しています。
そして主は、聖なるものを犬に与えることについての教えを、さらに違う例を用いて語られました。
また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。(マタイの福音書7:6)
イシュアの言葉は現実に表れて来ています。私たちの世代では、神聖なものに対する敬意が失われ、ユダヤ教とキリスト教は常に攻撃の対象となっています。なぜでしょうか?私たちは主の教えを無視し、聖なるものを犬や豚の餌にしたのです。預言者イザヤの時代に起こったことと同じことが、私たちの世代にも起こっています。偽善や、自分たちが代表していると主張する聖さにふさわしくない人々によって、聖さの概念が歪められてしまったのです。このような人々に対するイザヤの叱責が、「holier than thou/他人よりも聖なるふりをする」という言葉の語源となっています。
わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。(イザヤ65:2, 5)
イザヤの時代、聖なる身分を主張する人々は、神の義の基準に反して生きている人々でした。彼らは聖なる者とされたかったのですが、その聖なる者になる為の基準に従って生きようとはしなかったのです。これは神の民の間で絶え間なく起こっていることです。残念なことに、この問題を解決するために私たちの現在している事は、聖さを高めることではなく、聖さを無効にすることです。どうすれば私達のこの問題の流れを変えることができるでしょうか?主イェシュアの言葉を胸に刻み、聖なる時間、聖なる空間、聖なるものを、それらにふさわしい神聖さで扱うことから始めるべきかもしれません。そうすれば、偽善の醜さではなく、真の神聖さの美しさを、私たちの周りの世界に示すことが出来るかもしれません。
牧師:金井くみ恵
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