Toldot 正しい人の祈り | 聖書とイェシュアの教え

聖書とイェシュアの教え

イエスはユダヤ教のラビでした。
ではイエスの教えを守って生きるとはどう言う事なのでしょう?
ご一緒に学んでみませんか?

 

5分で学ぶ神の律法

 

by Darren N. Huckey

 

Toldot 正しい人の祈り   創世記 25:19-28:9

 

 

 



正しい者の祈り

 パラシャット・トルドは、ヤコブが兄エサウに代わって、長子の相続権を得ることになった物語です。しかし、この物語の初めには、イサクとリベカには子供がいなかった事が記されています。義理の母サラと同様に、リベカも不妊で悩みました。

 ヤコブの寵愛を受けた妻ラケルも同じでした。三人とも不妊症で苦しんだのですが、最終的には三人とも妊娠することができました。なぜ彼女たちはこのような苦労をしたのでしょうか。タルムードは、主が彼女らの祈りを望まれたからだと教えています。R. イサク師はこう述べています。


なぜ私たちの先祖は不妊だったのでしょうか。なぜなら、祝福された聖なる方は、正しい者の祈りを聞きたいと願っておられるからです。(b. Yevamot 64a) 

 本当にそうなのでしょうか。創世記25章21節には、「イサクは、自分の妻のために主に祈った。主は彼の祈りを聞き入れ、妻リベカは身ごもった」と記されています。ヘブル語では、「prayed/祈った」と「granted his prayer/祈りを聞き入れた」は同じ語源 atar から来ており、嘆願と言う意味があります。

 ミドラシュは、イサクが神を説得する為に道を「dug through/掘り」、神がイサクのために行動せざるを得なかったことを示唆しています。ミドラシュは、イサクの熱意を持った懇願を、王子が父に通じるトンネルを掘ることに例えています。この観点から、イサクの祈りは答えられただけでなく、神が手助けされたのです。

R. Levi は次のように言っています。


これは王の息子が父親から1ポンドの金を受け取るために、父親に向かってトンネルを掘っているのに似ています。王は内側から掘り進み、息子は外側から掘り進んだのです。       (Genesis Rabbah 63.5) 

 イサクの祈りについて、また別の解釈がタルムードにあります。ラビ・イサクは「entreat/懇願する」という言葉と「pitchfork/鍬」という言葉を結びつけ、正しい者の祈りには神の意志を揺り動かす力があるという概念を語っています。

なぜ義人の祈りが鍬に例えられるのでしょうか。人が鍬を使って、穀物の束をある位置から別の位置に動かす様に、義人の祈りは、祝福された聖なるお方の赦しを、怒りから慈悲に変えるのです。(Yevamot 64a) 

 私たちの師の兄弟であるヤコブは、「正しい人の祈りは、働くと大きな力があります」(ヤコブの手紙 5:16)と、このことを証言しています。預言者エリヤの祈りが奇跡的に答えられたのは、彼が特別な能力を持っていたからではありません。エリヤの祈りが答えられたのは、彼が創造主と正しい関係にあったからなのです。

 私たちの祈りには、大胆な粘り強さ、ヘブル語では chutzpah/ハツパ が必要なことがあります。私たちの師であるイシュアは、この概念を伝えるために弟子たちにいくつかのたとえ話を教えました。主が教えようとされた点は、私たちは祈りに勤勉であるべきで、決してあきらめないという事でした。もし私たちが、天の父が御自分の子供たちを愛しておられると信じるなら、私たちはどうしても必要なものを求めて、粘り強く祈るべきです。


求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。(マタイの福音書7:7-11)

 時には、私たちの祈りが神のお耳に届いていない様に感じることがあります。しかし、私たちには、私たちの声に耳をお傾けになり、私たちが必要とするものを与えて、祝福することを望んでおられる、愛に満ちた父がいることを、どんな時にも忘れてはなりません。

 

 

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