Vayeira アブラハムのDNA | 聖書とイェシュアの教え

聖書とイェシュアの教え

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5分で学ぶ神の律法

 

by Darren N. Huckey

 

Vayeira  アブラハムのDNA  創世記 18:1-22:24

 

 

 

 

 トーラーで最もよく知られ、心を打つ物語のひとつが、今週のトーラーポーションの最後に出てくる「イサクの縛り」と呼ばれる話です。ヘブル語では「Akeidah/アケイダ/縛り」と呼ばれています。神がアブラハムを試された10の試練のうち、最後の(そして最も困難な)試練とされています。私たちはこの一つの出来事から多くの教訓を学ぶことができます。ここでは、いくつかの重要な点を明らかにしようと思います。

 

 このポーションの冒頭で、トーラーは「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた」(創世記22:1)と述べています。なぜ神はアブラハムを試す必要があったのでしょうか?神は地上の全ての人の全てについて、知り尽くしていらっしゃるのではないのでしょうか?多くの場合、私たちは人生の苦難を敵からの攻撃と見なします。しかし、私たちの信仰の父であるアブラハムが試されたように、アブラハムの霊的な子である私たちもまた、神に試されることを予期しなければなりません。そして、試練が与えられる予期をするだけでなく、それを受け入れる心構えをしなくてはいけません。試練は神のためにあるのではなく、人のためにあるのです。試練を乗り越える事によって、私たちの神への信仰が世に示されるからです。そして時には、そのテストに合格することで、自分には思っていた以上の能力があることを知らされるのです。

 

 神がアブラハムに、最愛の息子をモリヤ山に連れてきて、「olah/オラー/全焼のささげ物」として捧げるようにお告げになった時、アブラハムの返事は、朝早く起きて、与えられた使命のためにすべての準備をすることでした。アブラハムは、ヘブル語で「 zerizut/ゼリズット/敏捷性」として知られている性格を示しました。アブラハムは、たとえこのような困難な仕事であっても、やるべきことがあるときは、遅滞することなく、すぐに熱意をもってその仕事に取りかかったのです。信仰に乏しい者なら、神の指示の厳しさに従うのをためらったり、遅れたりするところですが、アブラハムはできるだけ早く実行しようとしました。

 

 この出来事全体で特筆すべきことは、イサクが父と完全に同意したことです。ユダヤ教の伝統によれば、聖書の出来事の時系列に基づいて、イサクのこのポーションでの年齢を計算すると、彼は37歳前後であったと言われます。したがって、イサクはこれから起ころうとしていることを敏感に察知していたはずです。

 

アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。

                                   (創世記22:6-8)

 

 「Vayelchu sheneihem yachdav」というヘブル語の表現が、この箇所に二度出てきます。これは通常、単に二人が一緒に旅をしたという意味に訳されます。しかし、このヘブル語は、単に一緒に旅をする以上のことを意味しています。それは、共通の目的で一致していると意味します。彼らは「 yachadav/ヤハダヴ/一つになって」いたのです。この節でこの表現が最初に出てくるのは、イサクが背に薪を背負い、彼らが旅を始めた後です。二度目に登場するのは、イサクが、子羊を持って来なかったのは意図的なものであり、祭壇に置かれるのは自分であると悟った時です。しかし、それでも、二人は「一つになって」旅を続けました。

 

 イサクは父の偉大な霊的遺伝子を受け継ぎ、アブラハムと信仰において一体であったのです。この一体感は非常に強く、イサクは自分をいけにえにする儀式が正しく行われるようにと願いました。イサクはナイフが近づくと本能的に避けてしまうことを心配し、いけにえとしての自分の価値を傷つけないように、自分を縛るように頼んだとミドラシュは伝えています。これがイサクが持っていた、父との一体感の深さでした。

 

 ヘブル語には「Ma'aseh avot siman lebanim」という表現があります。「子供は父親のまねをする」と言う意味です。この試練を克服して、アブラハムは、将来のすべての世代に対する信仰の証となり、彼の子たちが聖別して認識されるモデルとなったのです。いわば、彼の霊的DNAは世代から世代へと受け継がれていくのです。パウロがアブラハムを「信じる者すべての父」(ローマ人への手紙4:11)と言うのはこのためです。私たちの行いがアブラハムと一致するとき、私たちは信仰の父のいわば複製、クローンになるのです。私たちは自分の霊的血統を示すだけでなく、子や孫のために信仰のモデルを築いているのです。私たちが皆、父アブラハムの揺るぎない信仰を子供たちやその後のすべての世代に反映させるような生き方ができますように。

 

 

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