朝鮮人の強制連行や慰安婦の記憶を、繰り返し、日本政府や世界に向けてアピールすることを、日本人はどのように受け止めるべきか。日本の保守派の政治家たちが靖国神社に団体で参拝し、宗教的な儀礼に従う姿を、日本人や、アジア、諸外国のジャーナリストはどのように伝えるべきか。
歴史的な記憶を、許し、忘れることは、現在の私たちの不満や鬱屈、不正義に対して、ともに熱意をもって応えることである、と理解してはどうか。と思いました。
The Guardian, Sunday 8 October 2017
Endlessly refighting old wars does nothing to heal a fractured present
Will Hutton
記憶が多すぎる。カタルーニャ、スコットランド、セルビア、ザクセン、あるいは、Brexit推進派が好む、トラファルガー、アジャンクール、エリザベス1世もそうだが、ヨーロッパはますます深刻な、許されざる記憶の乱闘状態に陥っていく。
この大陸中に集団的な呪いが固定し、過去の勝利と現在の鬱屈とが対比される。独立によって、支配権を取り戻し、一連の不正義に復讐することで、正義と繁栄、失われた栄光を回復できる。という。そのような主張は内戦に至るだろう、と欧州委員Günther Oettingerは警告した。世界もこの病から無関係ではない。アメリカでは南軍の旗が振られ、日本では政治家たちが靖国神社に参拝し、あるいは、イスラム聖戦主義者が十字軍への復讐を行う。ヨーロッパこそ、余りにも多くの歴史、余りにも多くの国家があったし、それを誇りにする部族に満ちている。世界の記憶の首都であり、非常に多くの国家が分離と分裂の叫びに脆弱である。
その最新の例がカタルーニャである。ヨーロッパでもっとも繁栄した地域の1つであり、バルセロナは最もダイナミックな都市の1つである。しかし部族的な栄光の記憶を刺激して、かすてぃりあの支配から独立を主張する者がいる。今週、カタルーニャ議会で、その議長Carles Puigdemontが、住民投票の90%が独立を支持した、と演説した。しかし、それは有権者の半分以下である。ゴム弾で投票を阻んだことは間違いだった。スペインの憲法裁判所が示したように、住民投票は違憲である。Puigdemontが独立を宣言しても、EU諸国は承認しなし。国際機関も認めなし。使用する通貨も合意がない。
こうした膨張した記憶は泡のようなものだが、市民的な自治を実現する、国家よりも小さな、文化的に統合されたマイノリティーが心の底に抱く、当然の要求である。しかし、最悪の場合、カタルーニャのように、破壊的なポピュリストたちがその本能、引き延ばされた憎悪、架空の鬱屈、不可能な願い、を利用する。それらを自治政府や民主主義という言葉によって語るのだ。
われわれはもっと明確にその情念の源が過去の不正義の記憶であることを理解するべきだ。敵意のほかには何も生み出さず、存在しない差異を膨張させるだけだ。David RieffがIn Praise of Forgettingで述べたように、われわれは非常に破壊的な、記憶のカルトの時代を生きている。記憶することは正しいけれど、あたかも過去を生きる者が、幼年期の不正義に復讐したいと願うことは精神病であるように、記憶に固執することはコミュニティーにとっての精神病である。
閉鎖を求め、エスニックな集団の優越性を主張するために、歴史は操作される。ボスニアの虐殺はその最悪の例だ。過去に敬意を払うべきだが、党派的な目的を神話にすることで賛美してはならない。グローバリゼーションの時代を生きるわれわれは、もっと許し、忘れることを学ぶ必要がある。そして公平な社会を維持するより良いガバナンスの構造を創り出すべきだ。
記憶の過剰には毒がある。