「当たり前」の裏側に潜む真実:日本の「豊かさと強さ」を再定義する4つの視点
「移民はもういらん」の真意——日本の形を守るための選択
1. 導入:現代日本が抱える「違和感」の正体
日々の生活の中で、私たちはある種の「違和感」を拭えずにいる。
ニュースから流れる政治家の言葉は空虚な響きを湛え、かつて私たちが知っていた街の風景は、静かに、しかし決定的に変容を遂げつつある。
経済の停滞や人手不足といった言説が「自明の前提」として語られる一方で、私たちの心に澱(おり)のように溜まる漠然とした不安は、一向に解消される気配がない。
日本は今、どこへ向かおうとしているのか。
そして、私たちが真に守るべき「日本」とは、一体何を指すのか。
こうした問いに対し、既存のメディアや政党が提示する回答は、往々にして表面的な数値や耳障りの良いスローガンに終始しがちである。
そこには、国民の生命や財産を守るといった「国家として当たり前の責務」を、あたかも特別な決意であるかのように語る欺瞞が潜んでいる。
本稿では、有本香氏の洞察を補助線とし、私たちが無意識に受け入れている「常識」を再検証したい。
そこに見えてくるのは、データが示す意外な真実と、私たちが次世代に受け継ぐべき日本文明の本質的な姿である。
私たちが直面しているのは、単なる政策の成否ではなく、二千年続いてきた文明の正念場なのだ。
2. 「人手不足」という虚構:働き方改革が奪った「働く自由」
現在、日本の至る所で「人手不足」が叫ばれている。
しかし、統計という鏡に映し出される現実は、世間の喧伝とは大きく異なる。
現在の日本の労働人口は7,000万人を超えており、これは日本の長い歴史においても史上最高水準である。
つまり、物理的な「働く人」の数が不足しているのではなく、そこには深刻な「構造的ミスマッチ」と「人為的な制約」が横たわっているのだ。
真の問題は、一律に導入された「働き方改革」という鋳型が、個人の働く意欲と自由を奪っている点にある。
厚生労働省のデータによれば、正規・非正規を合わせて約300万人もの人々が「もっと働きたい」と願っている。
しかし、お上が定めた画一的な労働時間の制限が、自らの意思で稼ぎ、夢を掴もうとする人々の手足を縛っている。
これは「労働者の保護」という美名の下で行われる、国家による「働く権利」の侵害ではないか。
かつての日本には、過酷な労働を厭わず、その対価として莫大な報酬を得るという明快な成功モデルが存在した。
漁船や建設現場、あるいは配送業務に従事し、数年で独立資金を貯めて成功を収める――。
そうした個人のダイナミズムを、現在の日本政府は「過剰な管理」によって窒息させている。
人手不足を嘆く前に、まず「働きたい人が働ける自由」を返すべきだろう。
有本氏
「お前1日8時間以上働いたら大変だろ。余計なお世話なんですよ。働きたい時は10時間でも15時間でも働きたいんだから、ほっといてというのが私のそもそもの考えなんです」
3. 「アンコ入りトースト」の哲学:日本こそが多様性の「先生」である理由
昨今、欧米諸国から「多様性」や「平等」について説教を受けるような場面が目立っている。
しかし、日本人が本来持っている「ハイブリディティ(能動的合成)」の才能を忘れてはいないか。
名古屋の名物「小倉トースト」は、その象徴的なメタファーである。
西洋のパンと日本の小倉餡を融合させ、独自の味覚へと昇華させる。
あるいは、西洋から伝わった自動車製造を世界最高水準にまで磨き上げたトヨタ自動車。
これらは単なる外来文化の模倣ではない。
異質なものを取り入れ、それまで以上に優れたものへと変容させる「積極的合成」の力である。
日本文明における平等観もまた、西洋的な画一性とは一線を画す。
それは「男女が全く同じことをする」ことを強いる平等ではなく、「異なる役割を持ちながら、共に幸せになる」という調和を重んじる知恵であった。
LGBTなどの問題にしても、日本では古来、他国のような苛烈な弾圧が行われてきた歴史はない。
私たちは、外来のドグマに振り回される必要はないのだ。
むしろ、異なるものを取り入れ共存させてきた「多様性の先達」としての自負を持つべきであり、安易な「LGBT理解増進」などの法制化は、日本独自の調和を壊すリスクを孕んでいる。
4. 歪められた「移民」の定義:1億円の社会的コストという現実
日本の外国人政策において、政府とメディアは国民に対して決定的な「嘘」をついている。
国際移民機関(IOM)の定義によれば、1年以上の在留者はすべて「移民」とされるが、日本政府は「永住への道が開かれている者」といった極めて狭い独自定義を用い、「日本に移民はいない」という欺瞞を繰り返している。
しかし、生活の現場では、特定技能や実習生という名の下に外国人が急増している実態を誰もが肌で感じている。
ここで直視すべきは、目先の「安い労働力」が、長期的には膨大な「社会的負担」へと転換されるという事実だ。
移民大国であるオランダのデータ分析は、残酷な現実を突きつける。
欧州系や日系以外の特定の地域からの移民を受け入れた場合、その人が生涯を通じて納める税金よりも、享受する福祉や行政サービスのコストが上回り、一人あたり約1億円のマイナス(社会的負担)が生じると報告されている。
コメダ珈琲で笑顔を振りまくミャンマー人の少女たちといった「個人の善意」とは別の次元で、国家としての「システムコスト」は確実に蓄積していく。
言葉の定義を正し、この「未来への借金」を直視することこそが、国家を守る第一歩である。
5. 日本を守るとは「文明」を守ること:国名だけが残る未来への警告
政治家たちは好んで「領土、国民の命、主権を守る」と口にする。
それは国家として当然の責務だが、真の保守とは、その奥にある「国柄(文明)」を守ることに他ならない。
たとえ「日本」という名前が残り、地図上の国土が保たれたとしても、そこに流れる独自の精神性、伝統、そして天皇陛下を中心とした二千年続く「文明の背骨」が失われてしまえば、それはもはや別の国である。
歴史を見れば、異質な文明や宗教に飲み込まれ、形骸化した地域は枚挙に暇がない。
日本は、世界でも稀有な「一つの王朝が続く文明体」である。私たちは今、その悠久たる時間の「終着点」に立たされている。
私たちが守るべきは、単なる物理的な器としての国土ではない。
先人たちが築き上げ、受け継いできた日本独自の文明的アイデンティティである。
この根幹が塗り替えられるリスクに対し、私たちはもっと鋭敏であるべきだ。
日本を「変容」させ、名前だけの抜け殻にしてはならない。それが、この時代を生きる私たちの重い責任なのだ。
6. 結論:次世代に手渡すべき「豊かで強い日本」への問いかけ
現代の政治に必要なのは、「選挙に通りたい」「いい人に見られたい」という私欲や偽善ではない。
たとえ「排外主義」といった誹りを受けようとも、日本の危機を正しく指摘し、信念を貫く政治の覚悟である。
「選挙ファースト」の論理で他党の政策を剽窃し、場当たり的な公約を掲げる政治家たちに、日本の未来を委ねるわけにはいかない。
私たちは、自分たちの世代の利便性さえ満たされれば良いという、近視眼的な思考から脱却しなければならない。
私たちが本当に次世代に遺したいものは何だろうか。
単に効率化され、顔の見えない「労働力」が代替可能なパーツとして徘徊する無機質な社会か。
それとも、二千年の伝統と誇りを胸に、自立して歩み続ける「豊かで強い日本文明」か。
その答えは、私たち一人ひとりが「当たり前」の裏側に潜む真実に向き合い、思考停止を拒絶できるかどうかにかかっている。