『引退ブログ Vol.6 #29 大塚鵬蓉』(埼玉栄高等学校出身) | 早稲田アイスホッケー BLOG

『引退ブログ Vol.6 #29 大塚鵬蓉』(埼玉栄高等学校出身)

みなさんこんにちは。早稲田大学スケート部ホッケー部門をこのたび引退しました背番号29番FW大塚鵬蓉でございます。退寮してからまだ半月程度しか経っておりませんが、この前寮に少しお邪魔して、後輩たちと一緒にゲームをしたのですが、それがとても楽しくて、早速寮が恋しくなっています。そんなことはさておき引退ブログを書いていきたいと思います。
私には2年前にこの早稲田大学ホッケー部を卒業した兄がいるのですが、その兄の引退ブログを読んでからもう2年が経ち、今度は自分の番になっていることに非常に驚いております。
私は小学1年生の頃からこの競技を始めており、早稲田大学アイスホッケー部引退と同時に16年間という僕の人生の大部分を占めてきた「アイスホッケー」に一度区切りをつけ競技を引退するので、この引退ブログで自分の今までのアイスホッケー人生を振り返っていこうと思います。長々と自分のことを話すだけになってしまいますが、ぜひ最後までお付き合いください。

まず、小学生の時、競技を始めたきっかけとなったのは、学校の友達に誘われたことです。現在の実家(長野県軽井沢町)には、私が幼稚園から小学校に上がるタイミングで引っ越してきたため、小学校に行っても最初は友達がいませんでした。周りは幼稚園から友達同士の子たちが多く、とても緊張しながら学校に通っていたのを今でも覚えています。そんな僕にも徐々に友達ができてきて、アイスホッケーをしている友達から一緒にアイスホッケーをやってみないかと誘われ、練習を試しに親と観にいきました。すると、いつも学校で会ってる友達がかっこいい防具をつけ、かっこいいヘルメットをつけて、氷の上をスイスイ滑っている姿に驚き、自分もやってみたいと思い、アイスホッケーをやり始めることとなりました。そして、軽井沢には小学生のアイスホッケーチームが2チームあり、どちらのチームの子からも誘われましたが、悩みに悩んだ末、軽井沢バッファローズに入りました。私の実家は小学校から6キロほど離れており、家の近所には同じ学校に通うような子供はいなく、なかなか学校終わりに友達と遊ぶことなどができていなく、寂しい思いをしていました。しかし、学校の同級生にはアイスホッケーをやっている子が7、8人おり、アイスホッケーを始めてからは、学校が終わった後にアイスホッケーの練習で再び友達と会うことができるようになりました。この頃はアイスホッケーが楽しいというより友達と学校終わっても遊べるのが嬉しくてアイスホッケーをやっていました。
私はそんな気持ちでアイスホッケーをやっていたため、アイスホッケーをするのは好きでしたが、自主練習などめんどくさいことは嫌いでした。スケートリンクが家から車で5分とたまたま近くにあったこともあり、よく私は父に嫌がっているにもかかわらず無理やり自主練習しにスケートリンクに連れて行かされていました。
父はスケートの経験はないながらも他のスポーツの体の動かし方などを参考にして、色々スケートの滑り方やシュートの強い打ち方、フェイントの仕方など試行錯誤をしながらアドバイスをしてくれていました。
兄も私と同じタイミングで一緒にアイスホッケーを始めており、兄はDFだったこともあり、ひたすらFWの私と一緒に1対1の練習をしていました。
また、父がお手製のゴールネットを家の駐車場に設置し、家でもシュート練習をするようになり、よく手にタコができていました。
書き忘れていることもありそうですが、こんな幼少期を過ごしていました。

小学校を卒業すると軽井沢中学校に入り、アイスホッケー部に所属しました。小学生では上下関係もなくのびのびと競技をしていましたが、中学では怖い先輩がいたりと、今までとは違う環境に戸惑いながらプレーしていました。また、プレー面では、小賢しさを覚え、シュミレーション(反則がないにも関わらず自ら転ぶことによって相手選手の反則に見せかける行為)というスポーツマンシップのかけらもないようなプレーをするようになってしまいました。私は記憶がなかったのですが、早稲田大学ホッケー部の同期の松下くんと中学時代に対戦した際に、松下くんに対して自分からぶつかりわざとこけるという悪質なプレーをしている証拠の動画を松下くんが持っており、言い逃れできず、とても恥ずかしかったです。



中学を卒業した後は埼玉栄高校に入り、アイスホッケー部に所属し、高校からは寮生活を送りました。中学以上に厳しい上下関係、初めての集団生活、怖い顧問の先生、携帯電話禁止など突然厳しい環境に身を置くこととなり、今の大塚鵬蓉が一番形成された時代だなと思います。特にきつかったのは、今までやってこなかった陸トレでした。中学時代も一応放課後の部活動の時間に集まって活動はしていましたが、他の部活が一生懸命練習をやっている中、アイスホッケー部は鬼ごっこなどして遊んでいただけでした。そんな中学を過ごしたため、まともに体力がなく、さらに元から走るのが苦手だったため、一年生の頃は、毎日ヘトヘトで体中筋肉痛で地獄の日々でした。今も同じですが、この頃は特に陸トレが嫌で嫌で、きつい陸トレのメニューの前日は本当に憂鬱でした。
兄が早稲田大学アイスホッケー部に所属していて、どんな大学でどんな部活動なのかなど、兄から聞くうちに早稲田大学に興味を持ち、大学受験では、早稲田大学に絞って受験勉強していました。私はスポーツ科学部のスポーツ自己推薦で早稲田大学に入ることができましたが、アイスホッケー部にスポーツ自己推薦で入れた先輩が近年では居らず、試験の出来もあまり良くなく、手応えがなかったため(小論文では制限時間ぎりぎりで時間が足りず、最後の方は時間のプレッシャーと 緊張で腕が震えまくり、まともに読める字ではない。面接では、受け答え中に癖で指の関節をパキッと鳴らしてしまい、静かな面接会場に音が響き渡ったなど)受かると思っていませんでした。そんな状況だったこともあり、合格を知ったときはもちろん嬉しかったのですが、それ以上に母に合格を伝えた時に、泣いて喜んでくれたのがとても嬉しかったです。




大学に入ると、コロナ禍という大変な時期に入ってしまい、あまり集まって練習をすることができなくなったり、大会などが全部中止になったりと物足りない一年生を過ごしました。また、数少ないアイスホッケーの機会では、ありがたいことに1セット目で使ってくださることがあり、その時に一緒に生江太樹さんと澤出仁さん(私が1年時の4年生で生江さんはフリーブレイズ、澤出さんはダイナックス)とセットを組んだのがとても印象的でした。2人ともめちゃくちゃアイスホッケーが上手で、スピードがとてつもなく早い2人に必死についていくのがやっとだったのを今でも覚えています。また、少しでも2人の足を引っ張らないようにと「もっとこうした方がいいとこありますか?」と2人に聞くと、毎回「ほーよーは今のままで、好きにやっていいよ」と言われました。自分がダメなとこがありすぎるのをわかっていたが故に、四年生の器の大きさと同時にセットに貢献できていない感がより一層感じてしまい、人生で始めてあんなに寂しく思いながらアイスホッケーをやっていました。
私が一年の頃、同じホッケー部に兄が3年生にいたので、兄の話題をきっかけに先輩達などが話しかけてくれたのがとても懐かしいです。
2年になると後輩ができ、プレーにもすこし余裕ができてきて、この頃は一番好き勝手にアイスホッケーをやらしてもらっていました。2年時には、兄が4年生になり、兄と一緒のチームで初めてちゃんとプレーできた1年間でした(3歳差で小学校低学年高学年中学高校すべて入れ違いで、大学では兄が一浪しているため2年間被ったが1年目は前述したようにコロナであまりプレーできず)。兄はDFでしたが、 よくDF目線のアドバイスをしてくれていました。インカレでベスト8で負けてしまったときに、兄が悔し涙を浮かべていて、不覚にも私もうるっときてしまったのを覚えています。
3年の時は木綿さんとずっとセットを組んでいました。木綿さんはプレー中自分が何をしたいとか、こう考えているなどと対等な関係で話し合ってくれていました。当時はそんな木綿さんのありがたみなんてわからず、わがままばっかり言っていましたが、今ではあんなちゃらんぽらんな木綿さんがとても偉大だったんだなと思ってしまいます。
4年になると、4年間で初めての韓国遠征がありました。国際問題に発展しかけたり、オフの日に観光したり、韓国の選手とお酒を飲んだりと4年間で一番内容の濃い夏合宿でした。
4年目の後半はずっとまーくん(背番号1番3年平林)と響平(背番号213年上山)と一緒にセットを組んでいました。まーくんとは地元が長野県で一緒で、小学生の頃から長野県選抜などで一緒にプレーしていたため、大学に入っても親しく話すことができていました。しかし、響平とは同じセットになるまで、あまりちゃんと話すことがなく、何を考えてるかわからない不思議な子のイメージでした。そんな3人で3セット目のFWを任されましたが、最初は不安しかなかったです。私自身今まで1、2セット目で起用されることがありがたいことに多かったのですが、最上級生では3セット目になったことで、複雑な心境でした。また、まーくんとは、「何をやりたい」とか「何を考えている」とかワンプレー毎に話すことができていましたが、響平とはあまりプレーについて話すことができていませんでした。当初は響平は天才肌で、こちらのやりたいことを共有するよりも、やりたいように自由にやらせてあげた方がいいのかなと思い、あまりプレーについて話すことをしていませんでした。しかし、3セット目を任されているうえで、「リスクを犯してでも点を取ってくる」というよりも「堅実に安定したプレー」をセットとしてやっていかなけらばならないと思い、そのためにもセット間のコミュニケーションを重要視していき、まーくんだけでなく響平ともプレーについて話し合うようにしていきました。本人が気づいているか分かりませんが、まだ親しく話せない響平との間をまーくんは取り持ってくれており、ありがたかったです。響平とまーくんと話しているうちに3人のプレーへ対する考え方がまとまっていき、どんどん3セット目としてのプレーがよくなっていったように思えます。2人は試合中疲れているにも関わらず、1プレー毎にあまり重要性の高くない、どうでもいいプレーについてまで一緒に話し合ってくれていました。セットの中で1人最上級生であるため、私が引っ張っていかないとと自分なりに思い、コミュニケーションを重要視した私に、2人も面倒臭がらず、積極的に話し合いをしてくれたことに本当に感謝しています。コミュニケーションに重きを置いたのが正しかったのかは分かりませんが、どのチームのセットよりも私は3セット目が一番コミュニケーションを取って、まとまっていたと思いますし、長いホッケー歴の中でこのセットでプレーしている期間が一番楽しかったです。さらにアイスホッケー選手としても一番成長できた期間であったなと思っています。
インカレの明治戦の最後の得点では、今までずっと話し合ってきた形でもあり、3人全員がやるべきことをしっかりとやって取ることができた得点でありました。(まーくんは、ずっと練習していたフェイスオフで正確に私のスティックに引き、響平はシュートブロックをする相手の進路を体を張って塞ぎ、私が打つという3セット目の集大成が詰まった得点であったと思います。)普段プレーであまり感情を表さない響平がガッツポーズをしているのを見てうるっとしてしまいました。




こんなアイスホッケー人生を経験してきましたが、アイスホッケーを通してたくさん学ぶことがあり、アイスホッケーを今まで継続してやってこれたことが自分の人生にとって本当に価値のあることであったと思います。
両親には、部費、学費、用具費などお金のかかるスポーツ、私立の高校、大学などにも関わらず、競技を継続してやらせてくれて、学校にも通わせてくれて感謝しています。また、経済面だけでなく、どんな時間帯でも試合があれば見にきてくれたり、遅くに家に帰ってもご飯を用意してくれたりと、兄を含めた子供達のアイスホッケーを中心とした生活にも関わらず、何から何まで、嫌な顔一つせず、サポートし続けてくれて、本当に感謝でいっぱいです。両親がこのブログを読んでいるか分かりませんが、今まで本当にありがとうございました。また、両親だけでなく、おばあちゃんなど試合があれば応援しにきてくれていた人達にも改めてありがたいことであったなと思います。




今後私はまだ就職せず、勉強する道を選びましたので、まだ両親には面倒をかけてしまいますがこれからもよろしくお願いします。
振り返ってきましたが、今まで多くの人と関わり、支えられながら過ごしてきたアイスホッケー人生でした。
今までこんな適当な私と関わってくださった皆様本当にありがとうございます。
同期への感謝も一人一人書こうと思っていましたが、入れる部分がなかったので割愛させていただきます。4年間みんなと苦楽を共にできて本当に楽しかったです。ありがとう!!!
同期とはこれから疎遠になってしまいますが、一年に一回はみんなで集まってお酒でも飲めたらなと思います。
ふざけることなく、ただつらつらと自分の過去を書いただけですが、皆さん最後まで読んでくれましたでしょうか。
このような形で私の早稲田大学アイスホッケー部としての活動を締め括らせていただきます。
他のどこの大学でもなく早稲田大学でアイスホッケーをすることができて本当に良かったです!
それでは皆さん、またどこかでお会いしましょう!さようなら!!