早稲田アイスホッケー BLOG
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『引退ブログ Vol.6 青木孝史朗(FW#8/埼玉栄高等学校』

こんにちは!!

引退後に一気に運動量が減り、身体が重く感じ始めたことに危機感を覚え
トレーニングを開始した青木孝史朗です。
卒業まで残された時間はあとわずかで、山積するやっておきたいことに日々追われていますが、全国にあるどこの店舗でも利用できる全国チェーンのジム会員になり、いいペースでトレーニングができています。皆様とお会いした時に「お前誰だっけ」と言われることのないように頑張りたいと思います。



それでは、本題に入りたいと思います。
今回が最後の早稲田ブログとなるので、昨年のブログを参考にかっこいいブログにしようと思ったのですが、文才豊かな先輩方の真似はできないと書き出し早々に確信したので、温かい目で読んでやってください。

早稲田大学スケート部ホッケー部門を引退して早くも2カ月が経とうとしています。入部して約4年が過ぎた今、率直に感じでいることをそのまま書きたいと思います。結論から言いますと「やり切った!!」という満足感の中に、わずかな「後悔」の気持ちがあります。

私は、小学生低学年の時に東伏見のリンクで大学リーグを観戦し、早稲田大学のアイスホッケーに衝撃を受け、憧れを抱きました。「絶対に早稲田大学でプレーしたい」という想いは一時も揺らぐことはなく、その強い想いが叶い入学することができました。合格が決まった時から数週間はずっと喜んでいた記憶があります。本当に嬉しかったです。

一方で、入学、入部できたことで自分の中に大きな満足感が生まれてしまいました。それもあってか一年生の時には思うような結果を出すことが出来ず、世代別の日本代表選手にも選ばれませんでした。夜も眠れないくらい悔しく、つらい記憶でもあります。小さい頃から練習嫌いで、胸を張って言えるほどの努力もしてこなかったので、仕方のない結果ではあるのですが、あの時もっと努力が出来ていれば、もしかしたら違う結果が出ていたのではという「後悔」は今でもあります。

しかしそのような経験の中で強くなったのは、自分が小さい頃から持っていた「負けず嫌い」の性格です。結果を出せないことや代表に選ばれなかったことが悔しいで終わるのではなく、必ず結果で「見返してやろう」という気持ちになったのです。試合ではその気持ちが強く出過ぎたために裏目に出て、チームに迷惑を掛けたこともありましたが、その気持ちがあったからこそ最後まで戦い抜くことができたのだと思います。


やり切ったという満足感と少しの後悔、色々書きましたが、それらを含めてなによりも私は早稲田大学スケート部ホッケー部門に関わって下さる「人」に恵まれたことに感謝しています。同期はもちろん、先輩や後輩、部長先生、スタッフ、マネージャー、OBや応援してくれるファンの皆様など多くの「人」に支えられてきました。特に今年度はチームのキャプテンを任され、多くの不安を抱えながらも皆様の支えがあったことでなんとか乗り切る事ができました。こんなにも多くの「人」に恵まれホッケーをできた自分は本当に幸せ者だなと感じています。ホッケー人生の中でも特に濃密で充実した4年間で、朝3時からの練習さえ無ければあと4年くらい在籍していたい思いです。

“何度生まれ変わっても僕は早稲田を選びます!”

昨年卒業した尊敬するジェイさんの卒業ブログでの言葉ですが、まさに同じ気持ちでいます。(もっとも私の場合は「選びます」ではなく「目指します」ですが笑)




まとまりのない乱文で申し訳ありませんが、最後にこの場をお借りして御礼申し上げます。
私に関わって下さった全ての皆様に心より感謝を申し上げます。
4年間、本当にありがとうございました。


青木孝史朗

『引退ブログ Vol.5 小澤田匠(FW#14/早稲田実業学校)

こんにちは


スポーツ科学部4年 小澤田 匠です。


昨日入学したはずだった私ももう引退ブログなるものを書くことになってしまいました。



驚きで指が震えててててていいますすす。



なんと言いますかそんなに熱いことを書くキャラでもないのでなにを書こうかと迷いながら筆()を走らせている次第でございます。



思いつくままに書いているので見るに耐えない文章になるかと思います。

頑張って耐えてください。


指の震えがおさまったところで本題に入りますしょうう。




私が早稲田大学に入りたいと強く思ったのは小学生の時に、早稲田の試合を見てからでした。

憧れた理由はただ、どこにもない色のユニフォームを着ていたというだけだったかも知れません。



そんな単純な理由で憧れを持った私でしたが、1度もその憧れが揺らいだことはありませんでした。

それほどに知れば知るほど魅力のあるチームなのです。



早稲田大学の凄いところは私と同じような想いを持って入学してくる選手が大半を締めることで、それがユニフォームへの誇りにつながっているのでしょう。




入学してみると私の同期の選手は8人でした。


他の学年と比べてみてもこの人数は多いのですが、1年目試合に出ていたのは、ただ1人でした。



不作な世代。

秀でた才能を持っている選手が多いわけでなく、不作であると自分達でも思っていましたし、多分周りからも思われていたでしょう。



これは全然関係のない話ですが、僕らと同じ1997年生まれの女優を調べてみても、他の代に比べて圧倒的に少ないです。

なので多分世界的に不作です。



それに加え、お世辞にも全員が仲の良い学年とは呼べず、どうも自分の代が好きになれない時期もあり、今でも不満を持つことがあります。



ただ、そんな同期に助けられ続けた4年間でした。



チームに問題が起きれば必ず全員が集まって会議をし、暇があればみんなでお酒を飲みに行きました。


雑草なら雑草なりのやり方がある。

そんなことを教えてくれた同期だったと思います。



僕らには他の学年にあるような「同期愛」なるものは薄いように思います。

腐れ縁と呼んでも良いぐらいです。


ただ、かけがえのない存在である事は間違いありません。




こんなにカラフルな代が未だかつてあったでしょうか。


ありがとう。



同期はこのぐらい持ち上げとけば良いでしょう。





毎日のように朝3時に起きて練習をするのは苦行以外の何物でもなかったです。

しかし終わってみるともの寂しさがあります。



3時の防具部屋というのはなんとも不思議な空間で、その日によって雰囲気が違っていました。



みんな眠すぎて誰一人喋らずに氷上練習が始まること。

氷上練習後の陸トレのメニューはなんだと気早くビクビクしていること。

起きて30分も経っていないのにくだらない話題で大盛り上がりしていることもありました。



後輩たちは現在、新しいシーズンが始まっており、

「お前ら、明日3時起きか!辛いな!」

なんて煽ったりしていますが、そんなかけがえのない時間を失った今、少し羨ましさを感じています。


そんな苦行が恋しくなるほどに、早稲田のチームメイトは僕の全てでした。





さらに早稲田が好きになったエピソードが僕にはあります。


これは書くか迷ったのですが、

私は大学3年次の4月に大切な人を亡くしました。


丁度、春の大会中の出来事で、チームに余計な心配をかけたくない思いから、私は自分なりにチームメイトには気丈に振る舞っていたつもりです。

チームメイトも事実を知りながら、

気を使われることが1番辛いとわかっていたのでしょう。

いつも通りに接してくれました。


そして迎えた週末の試合。

自分の中での切り替えが上手くできないまま臨んでいました。


そんな僕をチームが助けてくれました。


選手、スタッフ、マネージャー、全員が左腕に喪章を付けて戦ってくれたのです。




その光景を見た時、涙が止まりませんでした。


ただの一選手である僕のためにここまでしてくれるのかと。


心から彼らの為に戦いたい。

そう思えた瞬間でした。



僕の4年間をかけて少しでも早稲田の力になれたのならそれ以上の喜びはありません。





4年間の思い出を振り返って書くと小説どころか広辞苑の厚さができてしまいそうなので、最後に写真で振り返って終わりにしたいと思います。




追い出しホッケー

みんな思い思いの仮装をします。


陸トレがサッカーになると大盛り上がりでした!



彼らとよく学校行ってました。



海合宿!

言わずもがなの大イベントです。



この飲み会なしには僕の大学生活は語れません。




以上です。

長々とつたなつたなな文章書いてすみません。

読んでくれてありがとうございました。




これにて私のホッケー人生終了。

関わってくれた全ての人への感謝のを胸に。


お手を拝借。



よーお!パン👏


小澤田匠

『引退ブログ Vol.4 大崎大祐(DF#31/八戸高校)』

卒業ブログ

こんにちは!4年間、#31をつけていた大崎大祐です!
ついに自分も卒業ブログを書く立場になってしまいました。

先日、卒論も提出し、無事早稲田大学を卒業することができました!

今回の卒業ブログでは、早稲田への道のりについて少し話そうと思います。

私は、地元八戸で6歳からアイスホッケー を始めました。
小学時代は、「八戸ホワイトベアーJr」で、中学時代は「八戸市立北稜中学校」でホッケーをやりました。
当時、ホワイトの監督だった金入清高監督、北稜中の顧問だった種市勉先生はどちらも早稲田大学アイスホッケー 部の卒業生でした。

私のホッケー人生にとても大きな影響を与えてくださったお二人が卒業した早稲田大学とは一体どのようなところなのか?
中学生だった自分の中で、「早稲田大学」というワードが気になり始め、中3の志望高校を決める頃には、「早稲田大学」が憧れに変わっていました。

志望校を決めるとき、県外の高校を一切考えていなかった私は、自分にとって八戸から早稲田大学に行く最適な方法は何かと考えたとき、金入監督、種市先生が通った八戸高校に進むことに決めました。

しかし、八戸高校は県内でトップクラスの進学校で、これまでホッケーに一生懸命だった私は案の定、前期入試で落とされてしまいました。この当時、青森県の高校入試は前期入試と後期入試があり、一度落とされた自分にももう一度八戸高校を受けるチャンスが与えられました。
捨身の覚悟で受けた結果、受かることができました!

こうして、憧れの早稲田への道の第一歩を踏み出すことができました。

八戸高校

しかし、八高で待ち受けていたのは、毎授業の予習復習、授業の小テストとは別に毎週火曜の朝の20分間に行われる「火曜テスト」(合格点に達するまで再テスト)、週末は午後まで模試、夏季冬季講習など、the・進学校と言わんばかりの勉強漬けの日々でした。

早稲田を目指す以上、ホッケーだけでなく勉強もしなきゃいけなかったので、必死で食らいつきました。

この高校3年間が22年生きてきて一番大変でしたが、早稲田に入りたいという思いがあったから乗り越えられたと思っています。

高2で理系に進み、縁があって早稲田の夏合宿に参加することができました。

高3になり、早稲田の理系学科から指定校推薦がきました。
目標だった早稲田から指定校推薦がきたので、私はすぐに手を挙げました。
指定校推薦は、大学と高校の間の信頼関係があって成立しているものであるため、
私が、「早稲田の理系でホッケー部に入りたいです。」と高校の先生方に言うと、否定的な意見が多く飛んできました。
面接官の早稲田の教授からも否定的なことを言われました。

そりゃそうなんですよ。
理系は卒業単位数が多く、実験やらレポートやら、ただでさえ忙しいのに、加えて体育会って。ホッケーのせいで単位が取れず、留年なんてしたら、早稲田側は「なぜ八高はこんな生徒を送ったの?」となり、八高への信頼はなくなってしまいますよね。

ただ、私の中で、そんなことはわかっていましたし、大変になるだろうということもわかっていましたが、過去に理系のホッケー部員はいました。

そこで、意外と負けず嫌いな私は、否定的な意見を言われるほど、
「やった人もいるんだから、見てろよ、やってやる」
と思うようになり、より一層意思は強くなりました。

また、「お前ならできる」と背中を押してくれる家族、先生方のおかげで、自分の中で自信になり、入学が決まり部への入部も決意しました。


大隈銅像

理工キャンパス

実際に早稲田での生活が始まると、予想を超える多忙な毎日でした。

大変で苦しい時期もありましたが、私にとって早稲田は憧れで特別な場所だったので、諦めたくありませんでした。そこで高校時代に培った精神力も使いながら乗り越えました。

そして時は過ぎ、危なかった科目もありましたが、単位を「1つも落とすことなく」卒業することができました。

卒業して思うことは、早稲田という憧れが、自分の原動力になっていました。
また、ホッケーと早稲田に出会えたことで今の自分があると思っています。

ここまで長々書いてきましたが、
最後に、どんな時も支えて応援してくれた家族へ、恥ずかしいので一言で。

ありがとう。


早稲田で過ごした4年間はとても幸せな4年間でした!
お世話になりました、ありがとうございました!

4年間共に切磋琢磨した最高の同期
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