『引退ブログ Vol.3 #20 松下剛』(早稲田実業学校出身) | 早稲田アイスホッケー BLOG

『引退ブログ Vol.3 #20 松下剛』(早稲田実業学校出身)


ブログを読んでいるみなさん!こんにちは!

早稲田大学スケート部ホッケー部門4年の松下です。

 

現在私は、実家で現役時代の3時起床からの朝練とは程遠い生活を送っています。起床時間のせいか、私は実家において一人で朝食をとることが多いです。そのふとした時に、朝練後の食堂の朝番組をチーム全員で見ながら占いやじゃんけんなどで意味が分からないほど盛り上がったり、些細なことから笑いが起こる寮のことを思い出して寂しさを感じるようになってきました。そんな私も大学生活が残すところ1ヶ月を切り、引退ブログを書かかなくてはなりません。今までの先輩である4年生が引退するのを見ながら「今どんな気持ちなんだろう?社会人になれて嬉しいのか、それとも寂しいのかなぁ?」なんて考えていたのですが、いざ自分が卒業・引退するとなると全く実感が湧きません。やはり、大学4年間は「人生の夏休み」や「社会人になる前のモラトリアム」と言われるようにあっという間です。入部初日のキックオフミーティングでは、各高校の卒業式などの関係から我々新入生の代は一部の選手のみが集合となったのですが、千葉、金井、鎌田の3人がインハイや同じ入試方法での健闘を讃え合い和気藹々と談笑する中、僕と川本の2人が特に会話を交わすわけでもなく、まるでおしくらまんじゅうをしているかのように端の方でガッチガチに緊張しながらモジモジしていたのが、つい半年ほど前のように感じられます。

 

そもそも私はアイスホッケーをアメリカで始めました。私の住んでいた地元では、あたたかい季節に野球やバスケ、冬にアイスホッケーをプレーするというのが一種の慣習のようなものになっていたため、当時5歳だった私は「アイスホッケーを嗜む」程度のモチベーションでした。日本に帰国後は所属した西武ホワイトベアーズという、早稲田大学と同じく東伏見を拠点に活動するクラブチームに所属しました。そこでは、コーチを務めていた弊部OBでもある佐曽谷(平成9年度卒)さんにアイスホッケーのイロハを9年間に渡って教わりました。また、当時は家族で週末にプロの試合や大学のリーグ戦を観戦していました。その際に父に何の気なしに質問した、「この中で強くて頭もいい大学はどこなのか?」という質問に対する「早稲田」という回答を聞いてから、臙脂色のユニフォームでプレーする選手がとにかくカッコよくて見えました。この父の返答と小中学生時代のコーチの影響から、私の中では将来的に早稲田大学でのインカレ優勝が大きなモチベーションとなっていました。



それからは、アイスホッケーの傍ら勉強をするという生活が続きました。中学3年間は、特に忙しく、塾の帰りの阿佐ヶ谷駅から自宅までの間、私の塾の道具を乗せた自転車で家事の合間を縫って出てきた母が伴走しながらランニングをする日や、仕事帰りの父の運転で他チームの練習に参加する日々が続きました。私なんかよりもよっぽどハードな役を担っていた両親には頭が上がりません。そんな周囲のサポートを存分に受け続け、早稲田実業学校高等部に進学し、弊部に所属したという運びになります。

待ちに待った、大学一年生次はコロナの影響をもろに受け、チームとして活動できた時間が非常に短かったです。ただその限られた時間の中でも、寮での共同生活やついていくので精一杯だった練習が楽しかっただけに、公式戦に参加することなく解散してしまったのが非常に残念で悔しかったです。

そして、二年目です。今まで東京でアイスホッケーを続けてきた私にとって、所属チームで試合に出れないということは初で、精神的にも辛い時期がありました。また、このシーズンは、当時のチームのDFの柱としてプレーしていた務台(昨年度卒)さんと同部屋となり、寮生活を共にしました。DFとして絶対的なポジションを確立していたけれども、試合に出ていない私にもフランクで優しい先輩でした。練習に対しても常に丁寧かつ全力で、誰よりも多くの自主練をこなしていました。そんな、プレーヤーと生活を共にできたことで、ほとんど出場機会のないシーズンでも投げやりになることなく真摯にアイスホッケーに取り組めたと記憶しています。

折り返し地点となる三年目では、私も試合での出場機会が増え、徐々に試合勘を取り戻すことが出来ました。早慶戦ではMVPまでいただきました(ハットトリックを達成した大塚がたくさんペナルティをしたため僕に白羽の矢が立ったという裏話があります)。この早慶戦では、4年間でも3本の指に入るほどうれしいことがあったのですが、それは前述のMVPでも、憧れの早慶戦の舞台で勝利したことでもなく、「早慶戦」という興行を成功させられたことでした。主務としてマネージャーと二人三脚になりながら一つの興行を作り上げたことは、前年まで試合に出場できていなかった僕にとって、はじめて部に貢献できたと感じられた瞬間でした。

時が経つのは早いもので、あっという間に四年目が始まっていました。シーズン序盤は就職活動との両立でドタバタと時が過ぎ、「ようやくホッケーに集中できる」と思った頃にはソウルと北海道での合宿が終わり、秋リーグが始まっていました。秋リーグでは、アップセットを起こすこともできましたが、最終的にはファイナルリーグに進むことが出来ず、望んでいた結果は得られませんでした。しかし、インカレに向けてチームとしての確かな成長と一体感は得られたと個々人が思っていたはずです。

四年間で最後となるインカレがやってきてしまいました。弊部は、長らくベスト8から抜け出すことが出来ていないため、準々決勝の明治戦は正真正銘の大一番でした。結果的には負けてしまい、今までサポートしてもらってきた両親に対する最大の親孝行だと考えてきた「インカレ優勝の景色を見せること」は果たせませんでしたが、チームも自分自身もその時のベストを尽くせたため、どこかすっきりとした気持ちで最後のインカレを終えることが出来ました。

 

ここまでに記したこと以外にも本当に多くの出来事がありましたが、冒頭に記した通り一瞬で四年間が終わってしまいました。その四年間の中でも、私は体育会に入るという選択が本当に良かったのか確信を持てずにいました。というのも、休みの度に旅行に行く充実した周りの大学生のSNSを見て、「体育会には入らず、サークルに入り、たくさんバイトをして、飲んで、旅行に行く大学生活もまた違った楽しさがあるのではないか」と心のどこかで感じることが幾度かありました。ただ、最後のインカレの際に、「勝つか負けるかという、仲間と共に楽しめるこの緊張感が今後の人生ではもう経験できないんだ」という寂しさともいえる感情が芽生え、体育会に入り、スケート部ホッケー部門で唯一無二の時間を過ごすことが出来てよかったと感じました。もし、このブログを読んでいる人の中に体育会への入部を迷っている人がいるのであれば、ここでの4年間は他には代え難い経験のできる場所だと伝えたいです。

 

最後に、歴代の引退ブログの慣習に倣って各方面へのメッセージを記したいと思います。

 

後輩たちへ

僕は頼れる上級生というものを確立させることが出来ずに、シーズンが終わってしまったけれど、みんなのおかげで本当に楽しく充実した日々が送れました。本当にありがとう。普段は、ふざけたり、どこか抜けているような会話をすることが多いけれど、氷上では頼りになる選手ばかりで、そんなみんななら来年こそは結果を残すことが絶対に出来ると思います。いちOBとしてその活躍を見られるのが本当に楽しみです。



 

同期へ

本当に4年間助けられてきました。あらゆるところでいい加減でお調子者の僕を受け入れてくれて、ありがとう。バックグラウンドとか物事の考え方の違いから、時にはぶつかったりすることもあったけど共通の目標に対して4年間取り組むことが出来て楽しかった。卒業式のあと何年もずっと会わないなんてのも寂しいから定期的に集まろうね。



両親へ

何から何まで、自分が将来子供を産んだら同じようにサポートできるかわからないほどサポートしてもらいました。ここまで16年間本当にありがとうございました。最初はただ、試合中に父さんの指さす方向に走る競技としてプレーしていたから、何が楽しいのか全く分かっていなかったけど、少しずつ氷上で出来ることが増えて、小学校1年生から大学4年生まで本当に楽しい学生生活を送ることができました。明日からピヨピヨの社会人になるけれど、僕も周囲の人の好きなことを全力でサポートすることができるような人間になれるように頑張ります。



拙い文章ではありますが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。メッセージを書いた方のみならず、朝早い練習に来ていただいた監督、コーチ、トレーナー、部長先生。さらには、OBやファンの方々のご支援の結果、何不自由なく楽しいアイスホッケー生活を送ることが出来ました。本当にありがとうございます。今後とも、早稲田大学スケート部ホッケー部門への熱い応援とご支援の程、よろしくお願いいたします。