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ニューデリーの郊外、グルガオンの友人の家に行きました。
グルガオンは、ニューデリーの南の方、砂漠地帯に入ったような気がします。
すごく砂っぽいなか、新興住宅地、新興オフイス街らしく、高層ビルが立ち並んでいます。
日本の大企業や世界の経済の進出地点に
なっているようです。

そういえば七年前にここに来た時、大きなショッピングモールに連れてってもらつたことを思い出しました。

今回、帰ってきてインドブログをネットで漁ってると、電通の若手のクリエイターがインド短期派遣のブログを書いてました。それで知ったんですが、電通や他の日本企業もグルガオンにあり、
日本レストランが焼鳥屋から高級寿司屋まで何でもあるそうです。


ま、知ってても食べにはいかなかったと思いますが、あの砂漠の中に巨大日本組織があると思うと不思議な感じです。

ここにはアッサムの友達が子供たちの通学、教育のために買ったフラットがあります。バンガロウルのエスのうちと同じく、管理された団地のようです。

入り口は警備のための大きな門があり、中には子供たちのための公園がいくつかあります。ここで子供たちは安心して遊ぶことができるのです。
ちょっと日本では考えられませんが、インドでは住宅街に公園があって子供が遊んでるという光景は見られません。

外で見かける、うろついている子供たちは貧民、物乞いです。

ですから、この管理された団地の中で子供たちを育てるのは、最近のインドの富裕層のやり方だと思います。
スクールバスが団地まで迎えにきて、子供たちは外の世界を見てるだけで、団地の中と学校だけの生活を送ります。
外出する時は、両親かメイド、家族のものが必ず付き添うようです。

インドの格差社会については、私のように見るだけで、学問的知識のないものは論ずることができません。

私の友達は、10年ほど前にカルカッタのマザーテレサの家から電話があり、
子供をひとり、ひき取ってくれないかと言われました。
彼女は、マザーテレサの家まで出かけて行き、そこにいた六カ月位の男の子を抱き上げ、そのまま家に連れて帰り、全く自分の子供と同じように育てています。

この男の子の幸せは、インドでは砂漠の中のひと粒の砂のようなものだと思います。
そして私はといえば、何年かにいちどこの男の子に会うのを楽しみにして、この家族と一緒にいて幸せな気持ちなります。

インドのお金持ちの友達たちに改まって聞いたことはありませんが、
彼らは政治がどういう判断をしろ、どういう扱いをしても、伝統的に下層階級の人たち、(メイド、運転手、物売り、商店主、組織の勤め人、もしかしたら物乞いたち)に対する社会的責任を持ってるのだと思います。
それに、上流社会は下の人たち支えられているのですからね。
そうやって、このインドの複雑で巨大な格差社会は成り立っているのだと思います。

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ちょっと前までは、ろばか何かで運んでたんでしょうね。




高い塀に囲まれ
24h門番が付いていて、
入り口にポリスボックスのようなものもあり。
このような家はたくさん集まってコロニーをなし、そとの大通りからの入り口には大きな門があり、門番が常駐して
夜間は閉められ、住民だけが車で通ることができます。

詳しいわけではありませんか、江戸時代日本もこうだったのではないでしょうか?
封建社会にあって、同じような階級や職業で集められ住まわされ、大門と言う大きな仕切りを作り、火事の予防と言いながら、支配者階級は防犯も含めて、支配しやすいようにしたのではないでしょうか。

ニューデリーに、エクステンションという裕福な庶民が集まる地域あります。
今バンガロールにいるエムの実家がここにありました。
家の下の道路には大きな木があり、根元にアイロンやが開業してました。石で作った釜をマキで温めて、鉄のアイロンを乗せているのです。
毎日近所のメイドが
洗濯したての服を山ほど積み上げます
それを一つ一つ丁寧にアイロンがけして、たたんだり、ハンガーに掛けたり。
そのうちアイロンやに赤ちゃんができ、裸のままで木の下で育てられてました。
上から見てて、赤んぼが火のそばに近づくとハラハラしたものです。でも上手に夫婦でアイロン台の上で、あやして、遊ばしていました。

この通りには様々なな物売りが通ります。
果物や、八百屋、荒物屋。
いらんかね~とか野菜新鮮だよーとか言ってるんだろうと思います。
奥さん達やメイドが通りにでたり、塀ごしに買い物します。

日本にも戦前にはあった光景だと思います。
妙に懐かしい気がして、飽きずに二階の窓から眺めていたものです。

この家はエムの父親が亡くなったので人手に渡ったそうです。
エムの深い悲しみはこの大きくて優しかった父親の死にあるようです。



この建物は、ニューデリーの中心のショッピング街のものです。
デリーの新しい空港には,Aの娘のJが迎えにきてくれてました。
初めてあつたのは17~18歳の少女でしたが、今はもう27歳、美しいレディーに仕上がっています。
お父さんの仕事を手伝ってますが、美しいのはもちろん、頭も良く、仕事も有能で、しかもとても現代的で世界が分かってます。
こういう女性が、次世代のインドを背負うのでしよう。頼もしい限りです





着いた夜に私のためにパーティーをしてくれました。
Aは私の病気の事を知ってましたから、この世に戻ってきてよかったねパーティーでした。私も生きてまたこんなたくさんの友達に会えたこと本当に幸せに思いましたよ。

A とは10年ほど前にマレーシアのランカウイ島のホテルであいました。私は例のごとく仕事の合間を乗って、痛みを誤魔化しながらの一人旅で、私にしてはちょっといいホテルに泊まつてました。

翌朝、ホテルがオーガナイズしたランカウイのツアーに参加したら会議できていたAも1人できたのです。ほかの参加者はアベックばっかりでしたから、自然と話すようになり。
いつもの図々しさとゆうか人なつこさで
「私はインド人の友達たくさん持ってるのよ」などと積極的に話しかけたわけです。
変わった日本人だなぁと思ったそうです。
で、来月インドに行くと言うと、是非連絡しなさいと言って名刺をくれました。
なんと日本の有名企業のインドの社長だったのです。

翌月、デリーの空港にはチャイニーズボーイたちがまた迎えに来てくれて、Mの家に泊まり、
Aに連絡して食事に行きました。Aは奥さんを亡くされてましたから、娘さんや奥さんのご両親や妹さんまでみんなでゴルフ場のレストランで食事しました。
お父さん青紫色のターバン巻いていて
私はそういう人を身近に見るのは初めてで、アラビアンナイトのようだと感動しました。


アッサムの友達たちは
キンコにインド人のboyfriendできた。ターバンを巻いたお父さんにびっくり仰天したらしい!と言うのが中間うちで話題になりました。

もちろんボーイフレンドなどではなく、得難い友人としてのお付き合いが始まったのです。