葵さんに巣喰っていた病魔の名がガン。
葵さんが33歳のときだった。
悪性腫瘍というやつだった・・・
場所は「舌」。
葵さんが舌に違和感を覚え、それでも子育てやハルさんのサポートの忙しさに、
病院に行かずそのままにしていた。
しかし痛みで食事が摂れなくなって、病院で検査すると悪性腫瘍と診断された。
しかも喉への転移があり・・・
その夜ハルさんと葵さんは夫婦で泣いたそうだ・・・
俺は、そのことを聞かされたとき、目の前が真っ白になった・・・
そして何も力になれない自分自身を、すごく恨んだ。
初めて、自分の命より、他人の命が尊いと思った・・・
俺にとって葵さんの存在は特別で、泣くことしかできなかった。
もちろんハルさんも、俺と同じ気持ちだったはずだ・・・
いや俺以上に、そう思ったはずだ。
その夜、俺は妻にこの話しをした。
妻には以前からハルさんと葵さんの話はしていて、妻も一緒に泣いてくれた。
俺の母親であり姉でもあり、葵さんを心から助けたいと思った。
そして葵さんの壮絶なガンとの闘いが始まる。
ハルさんは仕事をし、子育てをし、葵さんの看病もした。
このとき、すでにハルさんは自分自身のキャパはとっくに越えていた・・・
それでも必死になって葵さんを支えた。
まずは抗ガン剤治療が始まった。
抗ガン剤とは、とても恐ろしいモノで、葵さんからドンドン元気を奪っていった・・・
髪は抜け落ち、痩せ、顔色も悪くなって、食事もまともにできず、
嘔吐を繰り返し、頭痛にも苦しんだ。
葵さんを瞬く間に衰弱させて行く・・・
そして、そんな姿を見ている方も辛い・・・・
いや本人はもっと辛いだろう・・・
俺は、毎日のように病院に足を運び、葵さんに顔を見せに行った。
妹の真美さんも、すごく懸命に葵さんを支えていた。
この辛い治療に耐える葵さん。
このときの葵さんの精神的支柱は、間違いなくハルさんと真美さんだった。
そんな辛いはずの葵さんは、俺が行くと必ず笑顔を見せてくれた。
とても強い女性だと思った・・・
でも、そんな姿がとてつもなく哀しく見えた。
そして抗ガン剤治療は終わりを迎える。
消えたガン細胞もあったが、残ったガン細胞もあった。
そして手術により残ったガン細胞を切除する。
その結果・・・舌の一部と声帯を失うことになる。
葵さんは、そのときから声を失ったんだ・・・
俺も葵さんの声が聴けなくなることが辛かった。
でも命を繋いだことに、どこかホッとしていた。
治療は一年にも及ぶものだった。
葵さんは退院し、もとの生活に戻れるようになった。
だんだんと髪も生え始め、痩せた体も少しずつ戻っていった。
ハルさんも自分の限界を越え、がんばった結果。
少し老け込んだように見えた。
精気に満ちた体つきは、既に失っていた。
葵さんは、再び子育てに奮闘し始めた。
そして哀しい笑顔ではなく、元気な笑顔を見せるようになっていた。
ハルさんは、なんかいつも疲れ切っていた・・・
でも明るいハルさんは健在で、カラ元気だったのかもしれないが、
元気でいつもの明るい笑顔も見せていた。
俺は葵さんの子育て教育を見たことがある。
こんなことがあった・・・
みんなでファミレスに行ったとき、
食べ終わって退屈だったのか息子のTが店内を走り回ってたことがある。
T自身は「探検」だとか言っていた。
ここで親なら怒って注意するのだろう。
でも葵さんは違った。怒ることはしなかった。
そして叱ることもしなかった。
葵流は、こうである。
葵だんが息子のTを呼ぶ。
「Tちゃん、お母さんのところにおいで」
駆け寄った息子を抱く。
「Tちゃん、お店の中を走っちゃダメだよ。何でか分かる?」
息子のTが答える。
「探検だよ!」
「探検もダメ?」
葵さんは優しく言う。
「探検もダメよ」
Tが言う。
「なんで?探検ダメなの?分からん」
葵さんが笑顔で優しく言う。
「探検したり、走り回ったりすると埃が立つよね?」
「他のお客さんも食べに来てるでしょ?」
「そうすると、それを嫌がるお客さんもいるの」
「人が嫌がることはしちゃダメって教えたよね?」
そうすると息子のTは・・・
「うん。人が嫌がることはしちゃダメって教えてもらった」
「じゃあ、探検我慢するよ」
すると葵さんは
「Tちゃんお利口さんだね!好き好き!大~好き!」
と言って抱きしめる。
こうして説明するように言い聞かせるのだ。
そしてファミレスには長居はしない。
公園などに場所を移し、ゆっくりと話したり、広い場所でノビノビと息子を走らせる。
退屈な思いをできるだけしないように子供の心も考えてあげられる母親なのだ。
もちろん葵さん自身も息子と同じ目線で、一緒に遊んだりもする。
そして例えば、こうだ。
息子は幼いときから父親のハルさんに連れられ、空手を習っていた。
組み手の練習になると痛くて泣きながら、親の元へ逃げてくる。
そりゃ殴られたり蹴られたりすると、痛いのは当たり前だ。
でもハルさんも葵さんも、人を殴る痛み。そして殴られる痛み。
両方を知り学んでほしかったと言っていた。
そして痛みに負けることなく、立ち向かう強さも学んでほしかったようだ。
嫌なことから逃げずに乗り越える強さ・・・
大人になるほど大切なことだ。
それを幼いときから学ばせたいという考えだった。
そして息子のTは空手の練習中に、よく泣きながら母親の元へ逃げて来ていた。
すると、葵さんは・・・
「Tちゃん。空手やめたい?」
もちろんTは頷く。
葵さんは笑顔で優しく話し続ける。
「辛いだけなら、やめちゃっていいよ」
「でもね・・・お父さんみたいに強くなりたいなら、がんばりなさい」
息子のTは頷き
「俺、強くなって母さん守ってあげるんだ!」
と言い、組み手の練習に戻って行く。
そして空手の練習が終わると、葵さんは決まってある行動をする。
「Tちゃん、よくがんばったね!絶対、強くなれるからね!」
と、息子に言いながら頭を撫でで抱きしめるのだ。
葵さんは、子供ががんばったり、子供自身が自分をコントロールできたときには、
必ず抱きしめて誉めるのだった。
子供達も誉められる喜びを、自然に学び知って行く。
そんな優しい教育方針で、息子Tはすくすくと育って行く。
葵さんは、そんな優しい母親だった。
そして、いつも子供に笑顔で接し、とても素敵な母親であり女性だった。
そして、しばらく葵さんは元気で家族と過ごす日々を送る。
葵さんは声帯を失って以来、筆談で会話するようになっていたのだが、
葵さんが35歳のときにハルさんが1台のゲーム機を買ってきて、
葵さんに薦めた。
プレイステーション3と白騎士物語というRPGのゲームソフトだ。
このゲームはオンラインで他の全国のプレイヤーと遊べて、
チャットなどで会話もできるソフトだった。
葵さんはチャットで会話できることに嬉しく思い、見事にはまっていった。
キーボードも買って、時間さえあればゲームに没頭したという。
声帯を失った葵さんにとって、このチャット機能があるゲームの世界は、
とても心地よい世界だったみたいだ。
余談だが35歳になっても葵さんはキレイだった。
誰も葵さんを30代と言う人はいなかった。
そのくらい若く見えた。
そして妹の真美さんも、全く歳を取らない。
若く見えるのだ。
クォーターだから?なのか、遺伝子?によるものなのか・・・
とにかく若く見える美しい姉妹のままだった。
そして葵さんが36歳のとき、再び死神が葵さんに取り憑く・・・
ガンの再発だった・・・・
そして壮絶な運命に翻弄されて行く。
ハルさんと葵さんを巻き込んで・・・
続く