(この記事はシリーズとして書いています。「福岡へ」もしくは「父をおくる (その1)」からお読みいただければ幸いです。)
前回から半月ほど日が開いてしまいました。
もう8月ですね。
そして13の月の暦では新しい年が7月26日からスタートしています。
世間的には東京五輪も始まっていて、今年も毎日うんざりするほど暑い暑い夏…その上コロナ禍はいっこうに収まる気配をみせず。
首都圏はまたしても緊急事態宣言です、もはや名前だけが一人歩きしているかのような「緊急事態」の夏。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
どうか水分・塩分を適度にとり出来るだけ涼しい環境に身を置き、よく眠りきちんと食べて心身ともにお健やかでありますように。
さて父の葬儀からちょうど1ヶ月が過ぎてしまいました、今日はその日(7月2日)のことを書き残そうと思います。
冒頭の写真は、父の棺に入れようと姉夫婦がいそぎ用意してくれた写真や思い出の葉書などで、(家族葬なのでお見せできる方はいらっしゃらなかったのですが)お通夜から告別式の間、斎場の入口に飾っておいたものです。
クラシックからロック・ポップスまで幅広く音楽を愛した父なので、本来ならば工夫を凝らしたBGMなども流したいところでしたが、そこまでの余裕はなくて…私などは千葉からほぼ身一つで来てしまったため何ひとつ父のために準備することができず…。
それでも前夜に、棺に横たわる父と黒霧島を飲みつつたくさん語ることができたので…あのとき私なりに「父をおくる」時間を過ごせてよかったと思います。
実は出棺の直前に、斎場の方による粋な計らいがありました。
鹿児島出身の父は若い頃から酒豪で、特に芋焼酎を好んでいたことをお伝えしてはいましたが、まさかあんなお心遣いをいただけるとは!
美しいお花を父の棺に家族ひとりひとり捧げ、父の表情がいっそう安らいでみえるなぁと思っていたところに「もしよろしければ…こちらのお酒も皆様で少しずつ、お父様のお口元にいかがでしょうか?」と声をかけてくださったのです。
小さな容れ物に入った黒霧島を、緑濃き菊の葉に湿らせて少しずつ。
末期の水とは意味合いが少し異なりますが、私たち家族に寄り添ってくださったことがとても有り難く、温かな気持ちに包まれました。
何より父が喜んだはず…昨日は私ばっかり飲んでてごめんねー😅と心で詫びながら、よかったねお父さん!と笑顔になることもできました。
残った黒霧島も容器ごと棺に入れて大丈夫です…と言ってくださった担当のUさん、その節は本当にありがとうございました。
こうして恙無く告別式を終え、火葬場では家族一同その立派な骨に驚き(骨密度が凄いね!という甥っ子の言葉が印象的)、もちろん時折父を思い涙が流れることもあったけれど、全体としては終始落ち着いた穏やかな気持ちで見送ることができました。
思い返せば…
6月30日、息を引き取る直前の父とちゃんと会えたこと。私の声が届いていると実感できたこと。
7月1日、お通夜で父の「魂の容れ物」であった亡骸ときちんと向き合えたこと。
7月2日、葬儀および火葬まで家族で心を込めて見送ることができたこと。
どれをとっても私にとっては有難く、幸せなことでした。
翌日は、オットと二人で母の眠る南蔵院さんに3年ぶりにお参りすることができました。
もうすぐお父さんもくるからね、天国でも仲良くね…と母に語りかけていると隣のオットも負けじと?母にあれやこれや話していました。
…まあなんというか、いろいろあるオットですけれども😅、心根の優しい人だなぁと改めて感じました。
久しぶりに会った甥っ子たちも、それぞれの人生に悩みつつ迷いつつも真っ当に生きていてくれて、日頃は滅多に連絡もとらない無精なオバだけれど💦彼らのことはいまだに可愛くて仕方ないなと思ったりもしました。
姉と姉妹になれたのも。
甥っ子たちに会えたのも。
思えば父母のおかげなんですよね。
もっといえば数限りないご先祖様たちのおかげ。
コロナ禍で今年のお盆には帰れませんが、心の中でしっかりと感謝の祈りを捧げます。
「残された家族が仲良く幸せであることが、1番の供養です」
お坊さまもそうおっしゃっていましたから。
世の中がどうあれ、まずは足元を固めて。
できるだけ機嫌よく暮らしたいと思います。
もちろん、納得いかない政治などに対し毅然と反対することも忘れず。
コロナ禍での五輪、個人的にはとても複雑な思いがあります。
亡くなった父は、東京五輪を純粋に楽しみにしていました。
前回の東京オリンピック(1964年当時)は、父も母も東京で暮らしていて姉が2歳(私はまだ生まれていません)、日本経済も勢いがありきっと充実し心踊る日々だったのでしょう。
2020年ならまだ元気でいられそうだ、頑張るぞ…と常々言っていたことも思いだされます。
招致活動のときからまったく手放しでは喜べなかった私とは、言ってみれば意見の対立がありました。
(晩年の父は精神状態が不安定な時期も多かったため、あまり刺激しないようにはしていましたけれど。)
親子であろうと夫婦であろうと友人であろうと、意見が分かれることは当然あります。
お互いを全否定するのではなく、違いを認め尊重すること。
自分の物差しだけを絶対と思わないこと。
反骨精神とユーモアを忘れないこと。
それらのことを、私は育った環境から学ぶことができました。
特に最後の、反骨精神とユーモア。
これは、父の根幹であったように思います。
勤め人だったころ、上司に盾突きたいして出世できなかったと笑っていた父。
真面目な顔をしてたまにとぼけたことを呟く父。
家族に対し声を荒げて怒ることなどなかった50代までの父。
定年退職し、娘二人が嫁ぎ孫にも恵まれた60代。
(このころから少しずつ父が短気になったと、母が嘆いていましたっけ。)
母に先立たれ、東日本大震災を経験した70代。
(関東で暮らす私の心配を強くするようになったのは震災の影響に違いありません。)
老人性精神疾患による妄言や異常行動が度重なった80代。
(これについては別の場所で多少書き残しましたが…小説が数冊は書けそうな経験でした。)
コロナ禍での最期は、意識のあるうちに娘たちの顔をみることさえままならず…心残りもきっと少なからずあっただろうと思います。
私としても…会えるうちにもっとたくさんあっておけばよかった、話しておけばよかった、感謝を伝えきれなかった…そんな悔いは残っています。
どんなおわかれをしたとしても…そんな思いはキリがないんでしょうね。
でも、母が亡くなったときに初めて強く実感した「魂の存在」があるので。
これからも私は心の中で両親に語りかけ、相談し、愚痴り、笑い、共に泣こうと思います。
たくさんの愛情をありがとう。
産み育ててくれてありがとう。
最後に、友人たちから届けられた美しい花をここにも残しておきます。