絶望の先にあるもの | Blessing Wind ことほぎ

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アドバンスカラーセラピスト、シンギングボウル・サウンドアルケミスト、LIFE Balanceアドバイザー 、ことほぎです。
13の月の暦、瞑想、ヨガ、呼吸法、アーユルヴェーダ。さまざまな学びと日々の出来事を記しています。ときどきSMAP(または新しい地図)。


先週の土曜日、仕事帰りに「ミッドナイトスワン」を鑑賞しました(2回目)。

約二週間前に先行上映で観て以来、ずっとこの作品のことが心の片隅にあって離れず…25日の公開を心待ちにしていました。
実は昨日(27日)、舞台挨拶付き上映も企画されていて(現地は競争率が高すぎるので💦せめて近場でその中継回を)予約しようかとも考えたのですが、日曜より土曜の方がたまたま動きやすかったので、ひっそりと観ることに決めたのです。

なにしろ封切り直後の動員数がまずは大事と言いますしね(ヲタ的発想、笑)、なによりも早くまた彼女たちに会いたかったので。

彼女たち。
凪沙さんに、一果に、りんちゃんに、実花先生に、凪沙さんと共に働く女性たちに。

あ、今日のブログは少々?ネタバレありになってしまいそうです。
未見の方は(ネタバレお嫌いな方は)ご注意くださいませ🙏

2回目を観て…初回の衝撃とはまた違う感覚を、いま味わっています。
少しは俯瞰でみられたこと、ストーリーが分かった上で純粋に映像と音楽に身を委ねられること、美しいとしか言えないシーンの数々に浸れたことが大きいのでしょう。

それでもなお、ザラザラとした感触ややり切れなさがあるのももちろん悪いことではないはず。
そういう「ひっかかり」が多いほど忘れがたいものだし、そのひっかかりは観る人それぞれの生い立ちや個性とも直結している気がするから。

今回改めて感じたのは、物語の冒頭とも言えるシーンで自分の感情がぐらついたこと。
(すいません、勝手ながらしばらく「ですます調」やめます。)

それは一果(服部樹咲)と母親(水川あさみ)のアパートでのやりとり。

ママな、疲れとるんよ。

そう言って中学生の娘に甘える母親にデジャヴを感じてゾッとした。

ネグレクト(育児放棄)されて育ったわけではないが、母親に本心を見せられず手放しで甘えることもできなかった自分自身の幼少時代がオーバーラップしたせいだ。

そうやって甘えられるアンタはいいよな、グダグダに酔っ払ってろくに食事も作らず何より十分に親に甘えることも許さなかったくせに、いつのまにかアンタは娘の私に甘えるんだ。

一果の心の声が聞こえて、腕を噛むシーンが痛くて痛くて。

そのシーンをきっかけに、この映画にでてくる「ママ」という言葉のもつ化け物のような響きになんどもパンチを喰らった。

母性なんて、良いだけのもんじゃない。
飲み込もう、同化しよう、支配しようとする力も間違いなくそこにはある。

そう強く感じながら生きてきた自分に(いまもまだその感覚に囚われているのだと)気づかされる響きが、そのきっかけが、水川あさみの放った「ママな…」だった。巧いなぁ、凄いなぁ、あさみ。(なぜ呼び捨て😅)

ぞっとさせてくれてありがとう。
ざらつきは、いつでも自分の中にそのテーマがあることを思い出させてくれる。

そんな視点からみると、この映画には「ママ」「おかあさん」という言葉と存在が、大きな意味をもっているように感じられてくる。

水川あさみ演じた桜田早織。
草彅剛が演じた凪沙さん。
少ししか登場しないが、根岸季衣が演じた凪沙の母親。
その後ろでベッドにいる母の母(凪沙と早織の祖母)。
新宿の雑踏にいる、幼い息子を叱る母。
田口トモロヲさんも洋子「ママ」。
それからりんちゃんの母親…(サトエリも巧い…ホントあの役も効いてたな…)。

対照的に、ミッドナイトスワンには父親という存在がほとんど出てこない。
りんちゃんの父(金持ちで愛人が二人いることが娘にもバレている男性)くらいか。

父親ではなくても魅力的な大人の男性がほぼ登場せず、その代わりにヤレヤレな男性客や教師や面接官ばかりが目立つ(ようになっている)。

つまりきっと、いわゆる男性性というものを徹底的に排除したというか…排除ではないのかな、女性性について深く掘り下げるにあたり、そこを敢えて描かずとも自然に浮き彫りになるもので表現している…というべきか。

特筆すべきは、男性性からも女性性からも自由であるように見える二人の登場人物。

ひとりは、バレエ教室の実花先生(真飛聖さん)(彼女が元宝塚のトップスター=男役だったということも実は意味が大きいのかもしれない)。
もうひとりは、夜の公園で凪沙と一果に声をかける老人(お姫様方、という呼びかけがどこまでも紳士的で素敵だった…ごめんなさい役者さんのお名前がわからない🙇‍♀️)。

母性も父性も、女性性も男性性も超えているように(私には)感じられたこの二人の存在が、この作品の中でいちばん安らげるものだった。

なにしろトランスジェンダーを描いた作品だから…女性として生きたいのに男性の体で生まれてしまった凪沙が、心身ともにもがいて苦しんで毎日のたうっている様子がありありと伝わってきて(だって凪沙役は草彅剛ですから…あの人はいったいなんなの…ヲタだから欲目抜きには見られないけど、でも控えめに言っても傑出した俳優だと思う…)、これまで心無い言動をどれだけ浴びてきたことかと…描かれていないことまで勝手に想像してしまうくらいで。

だけど実花先生と公園の老紳士は、そこをひょいと超えてナチュラルに接するのだ。
妖精なのかな?と思えてしまうくらいファンタジックで、でも同時に無条件に信頼できるふたりの声と姿。

トランスジェンダーである凪沙も(その仲間たちも)、親から虐待を受けて育った一果も、裕福ではあっても心から満たされたことはないりんちゃんも…それぞれ違う形の絶望を胸にずっと抱いている。
母親らしくありたいのにそうなれない早織にもきっと、育つ過程でトラウマがあったのだろうし…凪沙の母も祖母も、トランスジェンダーというものを理解できず苦しんでいるのだろうし、りんちゃんの父や母にも救いを求める魂を感じるし…誰も彼も絶望しているようにさえ見える。

そんな状態のなかで描かれるからこそ、美しく際立つシーンがいくつも生まれているのかもしれない。

すべてのバレエのシーン。
ハニージンジャーソテー。
学校の屋上の愛おしいふたり…。
公園で踊る一果と凪沙、老紳士。
実花先生の言葉に照れ笑いする凪沙。
白鳥の髪飾りをつけてやる夜のシーン。
再会してまた食卓に並んだハニージンジャーソテーとそこでのやりとり。
海と一果、それを感じている凪沙。
トレンチコートと赤いヒールの後ろ姿。
コンクールのオデット。

そして、ラストで差し込まれるカット…。

たくさんの深い絶望のあわいに、あるいはその先にあるからこそ輝いているシーンたち。

描かれてはいないけれど。
さらにその先にあるものが私には確かに感じられて、そのことに励まされている。

それは一果の未来だ。
バレエダンサーとして大成するかどうかはわからないけれど(そうであってほしいけれど)、確実に彼女はなれるはずなのだ、実花先生や老紳士と同じ「突き抜けた、フラットな存在」に。

それがこの映画のいちばんの救いだと、少しだけ咀嚼できたいま感じている。

服部樹咲ちゃん。
素晴らしい演技をありがとう。
桜田一果はずっと、観た人の心に残り成長すると思う。
あなたが演じたからこそ。

うーん。
私には映画のレビューはできないな。

自分が感じたことをそのまま書くだけで、批評ではないし宣伝にもならないだろう…。

ただ、前回のブログでは「全国地上波でろくに宣伝もさせてもらえない」と書いたが少しだけ状況が上向いてきたようで有難いと思う…(どの立場で有難いと思っているんだろう私ww)。

今日はこれから、つよぽんが吾郎ちゃんのラジオ番組(THE TRAD)に生出演するようだし。
金曜には「ぴったんこカンカン」にゲスト出演できるらしいし♪
CMもわりと流れている?そうな。(私はあまりTVを見ないのでよくわからないんだけど😅)

たくさんの人に観てもらえますように。

気にいる人もそうでない人もいるだろうけど。
ミッドナイトスワンという映画の存在を、まずは知ってほしいと思う。
できれば、きちんと評価してもらいたいと願う…何をもって評価とするのかはまた難しい問題だが。

小説のほうには、映画で描かれていない部分もかなりあると聞いたのでそちらにも触れてみたい。

自分のなかの母性だとか女性性にも、向き合う時期かな…もはや(実花先生たちとは別の意味で)突き抜けている気もするけど😅

…そんなまとめ方あるかーい!